「有松鳴海絞り」を地域産業から世界のスタンダードへと昇華。「suzusan」村瀬弘行さん

「有松鳴海絞り」を地域産業から世界のスタンダードへと昇華。ブランド「suzusan」村瀬弘行さん

江戸時代より続く愛知県名古屋市の伝統工芸「有松鳴海絞り(ありまつなるみしぼり)」には200種類以上の技法があり、その多さゆえに世界の絞り文化の中でも稀有な存在。そんな有松絞りを家業とする老舗「鈴三商店」に生まれ育った村瀬弘行さんは、代々受け継がれてきたその技法を、旧来の伝統工芸としてではない新たな価値として生み出すべく、アパレルブランド「suzusan」を立ち上げた。


江戸時代より分業制で発展した有松絞り



愛知県名古屋市緑区で、昔ながらの趣ある建物が並ぶ有松地域。この地で江戸時代初頭から続く産業が、絞り染めの織物「有松鳴海絞り」だ。江戸初期に、木綿栽培が盛んだった近隣の地域から反物を仕入れ、工夫を凝らした絞り染めを開発して手ぬぐいを作り、東海道を行き交う旅人に売るようになったのが、その始まりだという。その後、瞬く間に人気となり、安藤広重の浮世絵「東海道五十三次」にも描かれた。

そもそも絞りとは極めて原始的な染色技法のひとつで、生地を糸でくくった状態で藍などの染液に浸すことで、染液が浸透して染まる箇所と浸透せず染まらない箇所を作り、それが柄となって多様な模様を生み出していく技術。その単純さゆえ、日本のみならず世界のいろいろな地域で行われてきた。そんな中、有松絞りがいち地方の民芸にとどまらず産業として発展を遂げたのは、なぜなのだろうか? それは、地域内で分業制をとったことで柄に多様性が生まれたことが理由だといわれている。


200以上の模様が存在した有松鳴海絞り


有松鳴海絞りには200以上の模様があり、それが日常的な仕事の中で使い分けられていたというから、そのデザインの幅広さには驚かされる。



ちなみに、絞りの仕事を細かく分けると、柄をデザインする「図案」、型紙を作る「型彫り」、型紙をもとに布に模様を刷り込む「絵刷り」、柄を生み出すために糸で括る「くくり」、染液を浸透させる「染色」、そして最後にその糸を解く「糸抜き」といった工程がある。前述したように、この地域ではこれらの工程を分業しており、suzusanブランド誕生のきっかけとなる「鈴三商店」は、明治時代中期に図案、型彫り、絵彫り業としてスタート。1977年に、弘行さんの父で4代目にあたる裕さんが先代より鈴三商店を継承したことを機に、自社のオリジナルの商品の販売まで拡大し、そのバリューチェーンを広げていった。


そんな裕さんが次に目を向けたのが海外展開。1992年に有松鳴海絞りの地元、愛知県名古屋市で行われ、約20カ国の地域と企業が参加した「第1回 国際絞り会議」に参画することで、世界における絞りの実態を知り、有松絞りの可能性に確信を持つことができたという。それをきっかけに世界中の専門家やアーティストたちとのコミュニケーションにより情報共有ができ、1994年にはイタリア・ミラノにて初のヨーロッパ展覧会出展を果たした。

その頃、屋号を「スズサン」へと改称。より一層海外での認知度向上へ注力していく。


父から息子へ。守り繋ぐ伝統のバトン


四代目の裕さんが、有松鳴海絞りの普及に躍起になっているその頃、息子の弘行さんは芸術家になりたいと、2004年にアートを学ぶため渡英。周囲から「あと十数年もしたら、有松鳴海絞りは産業ごとなくなるよ」と言われていたこともあり、家業を継ぐつもりは毛頭なかった。

しかし2007年、村瀬さん親子にとってのターニングポイントが訪れる。イギリスのバーミンガムで行われた「The Kintting & Stitching Show」だ。継ぐ気はなかったものの、留学先で行われるイベントに父が参加するのであれば、手伝わないわけにはいかない。 弘行さんは、裕さんの手伝いをする中で、海外の人たちの有松鳴海絞りへの興味や関心に感銘を受け、日本では古いとされる伝統技法も、地域や人、視点が変わることで新しい価値として捉えてもらえるんじゃないかと考えた。それほどまでに、いつもの有松鳴海絞りのはずなのに新鮮で美しく、魅力的に感じられた。



こうして、有松鳴海絞りに改めて興味を持った弘行さん。この技法を守り続けるだけではなく、海外で見てきたモノやコトを活かして新しい表現をするため、イギリスから移り住んだドイツのデュッセルドルフにて現地法人「Suzusan e.K. (現Suzusan GmbH & Co.KG)」を設立。“絞り”をカシミヤなど、旧来の有松鳴海絞りでは使われなかった素材に落とし込んだ数枚のストールから自社ブランドをスタートさせた。絞りがスタンダードな日本の和装とは違う、“洋服”というレイヤーで勝負したのは、地元有松で絞り業をしている人たちと競合しないためでもある。伝統を繋ぐために始めたブランドが、逆に伝統を衰退させてしまうことだけは絶対に避けなければいけないと考えていた。そのため、ブランド立ち上げから5年ほどは、パリの展示会に訪れる日本のバイヤーからの商談は断り、海外のみでの販売を徹底した。最初のうちは、どこのものともわからないこのブランドやそのアイテムを受け入れてくれる人は決して多くなく苦労の連続だったが、情熱を掛け、良さを説いていくうち、次第にその魅力が認められていくようになった。


パリファッションウィークへの出展


ブランドを設立して4年目の2012年、フランスの老舗セレクトショップ「LECLAIREUR(レクレルール)」の後押しがあり、当時同店が主催をしていた合同展示会「Tranoi」に、4平米の小さなブースを出展。これがパリファッションウィーク(通称・パリコレ)への初出展だ。初回のオーダーはたった4件。それでもコレクションを増やしながら毎年新作を発表することで、徐々に知名度を上げ、いつしか開催する展示会には常に多くの人が訪れるブランドへと成長していった。



その後、海外でのみ展開していたsuzusan のブランド事業を日本国内でも展開開始。そのタイミングで父が個人事業主として経営していたスズサンを「株式会社スズサン」として法人化した。ブランド運営のヘッドクオーターはドイツのsuzusanが、生産と国内販売の機能を日本のスズサンが担う形で運営を開始。年々有松鳴海絞りの職人が少なくなっていく中、国内外での価値を高めながら販路を拡大しつつも、すべての工程を有松で一貫する環境を整え、製品をその地域で購入できるまでの導線を作ることで職人をはじめとした従業員の雇用を確保し、技術やノウハウ、そして製品の魅力を有松で紡いでいくことを目指した


地域に根付いた文化を未来に繋ぐ



職人の高齢化が深刻だった15年前。あと15年もしたら、有松鳴海絞りは産業ごとなくなると言われていたが、実際はどうだろう。現在、同社のスタッフは20~30代が中心だし、ファッションに関心のある若い世代が有松鳴海絞りのアイテムを身に着ける姿も見られるようになった

もちろん、ただ待ち構えているだけでは現在のような状況にはならなかっただろう。ブランドのローンチ当初、弘行さんは有松鳴海絞りのストールをトランクに入れて、ヨーロッパ各国をまわり、ショップと直接交渉を繰り返してきた。これぞ、弘行さんの信条。“良いものづくり”には技術、知識、経験、センス、そして情熱の5つの要素が大切と考え、これらに全身全霊をかけ、ブランドを育ててきた。

それを証明するように、昨今、世界各国で開催される同ブランドのコレクションには世界中から92ものショップが来店。このように世界から注目されるようになった現在でも、ファッションショーは行っておらず、ショールームで展示会形式にて展示を行う。華やかなショーをすることがブランドとしての集大成ではなく、大切に作ったものを、大切に使ってくれる人へ届け、直にその魅力を感じてもらうことこそ、本当の意味でのゴールだと考えている。

「これまで、約15年かけて有松鳴海絞りを世界に発信してきたが、次なる目標として、海外で有松鳴海絞りを愛用してくれている人たちが、ブランドをきっかけに有松という地域に興味を持って訪れてくれる道筋を作りたい」と話す弘行さん。センスと経験を活かし、自身のブランドを通して有松の魅力を伝えていく。


ACCESS

株式会社スズサン
愛知県名古屋市緑区有松3305
TEL 052-693-9624
URL https://suzusan-shibori.com/