小笠原の文化と歴史「南洋踊り」大平京子さん/東京都小笠原村

目次

小笠原に伝わる南洋踊り

腰みのをつけて、花の髪飾りをさして優雅にそして楽しげに舞う。小笠原に伝わっている南洋踊りだ。この踊りは日本が戦前に、サイパンやグアムなどミクロネシア地域を統治していた時代に、南洋諸島に出かけていた人々が持ち帰り伝えたものだ。
歌とともにゆったりとしたダンスが踊られ、何とも優しい気持ちになれる南洋踊り。5曲からなる歌の言葉は、「夜明け前」だけはパラオで日本語で作詞されているが、「ウラメ」、「ウワドロ」など、そのほかの歌は現地の言葉で伝えられている。まさに南洋の島、小笠原独特の雰囲気が伝わってくる。
見学当日は小学校で、運動会のために子どもたちが南洋踊りを練習していた。腰みのをつけた大人たちといっしょに子どもたちも踊る。こうして南洋踊りは受け継がれてきたのだ。
そのとき歌を歌っていたのが、大平京子さん。小笠原で生まれ、これまでの人生のほとんどを小笠原で送ってきた女性だ。

戦争で島を離れる

島民の多くは第二次世界大戦時に疎開のため小笠原を去った。そして終戦後、小笠原はアメリカの統治となった。そのため、疎開した島民は帰島することができずに、本土にとどまらざるをえなかったのだ。ただし、欧米系島民と呼ばれる欧米系の祖先を持つ人たちだけは帰島を許された。大平さんはその中のひとり。戦後、小笠原諸島がまだアメリカの統治領だったころに、疎開から戻ってきたのだ。
「様子は離島するときとだいぶ変わっていましたか?」という中田の質問に「何も残っていなかった」とすぐに大平さんは答える。
「何もない。みんなかまぼこ兵舎になってしまって、そこで暮らしたんですよ。窓が小さくて、暑くてしょうがなかった。と、思っていたら、奇跡的に私が暮らしていた家だけそのまま残っていたんです」
食堂として使われていたらしく、大平さんの家は島を離れたのときのまま残っていたそうだ。そしてその家に帰ることも許された。ただそれだけで、以前の暮らしと同じようになったというわけではもちろんなかった。

「小笠原返還の歌」が生まれたきっかけ

アメリカ統治当時は、学校で教える言葉は英語。一般には日本語も通じたが、いろいろな制度など、日本とは違うものとなっていた。「不便ではなかったですか?」と中田が聞くと、「それは不便なところもたくさんありましたけど、それ以上に寂しかった」と大平さんは話す。
当時帰島を許され、戻ってきたのは130人ほど。島には軍関係の人か親戚しかいなかったそうだ。
「お友だちがいなくなってしまったのは、本当に寂しかった。何よりそれが一番心に残っています」
だから小笠原が日本に返還されたときは本当に心からうれしかったという。
大平さんは本土にいた先生と手紙をやりとりしていたのだが、あるとき声を聞いてもらおうとテープを送った。返還となったことがうれしくて、気持ちを箇条書きにしたものに節をつけた歌を入れて送ったそうだ。それが現在「小笠原返還の歌」として曲になったのだという。溢れてくる感情をそのままつぶやいたものが歌詞になっている。小笠原の歴史や人々の歩みは、南洋踊りや小笠原返還の歌として、こらからも伝わっていくのだ。

ACCESS

大平京子
東京都小笠原村
  • URLをコピーしました!
目次