庭園に囲まれた伊達光宗の菩提寺「円通院」/宮城県松島町

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伊達政宗の嫡孫であり、徳川家康の曾孫”伊達光宗”の霊廟

伊達政宗の菩提寺である瑞巌寺(ずいがんじ)のすぐ隣に位置する円通院伊達政宗の孫にあたり、徳川家康の曾孫にあたる伊達光宗が19歳の若さでこの世を去り、この地に霊廟 (れいびょう)「三慧殿 (さんけいでん)」 が建立され、菩提寺として正保4年・1647年に開山した。三慧殿は伊達藩の技術の粋を集めた建築として国指定重要文化財に指定されている。
現在は一般にも拝観することができるが、古くは3世紀もの間、秘蔵とされていたという。

境内には、光宗が親しんでいた江戸納涼の亭を移築し、「大悲亭」 として聖観音菩薩座像をお祀りしている。
「父である伊達忠宗の悲しみは想像を絶するものだったのでしょう。深い悲しみのなかで、亡き息子を悼んでこの納涼亭を移築したんです」 そう話すのは、円通院副住職の天野晴華さん。大悲亭の正面には、心字池と観音菩薩が住む補陀落山を表現した庭園が広がっている。

幕府に知られずに異国文化を残す

この日、特別に三慧殿内を見せていただくことができた。
「厨子の扉をご覧ください、ここに西洋水仙と薔薇の花が描かれているんです」
確かに美しい絵が残されているが、西洋水仙や薔薇は西洋の花は江戸時代には大変珍しい植物だったという。伊達藩は慶長遣欧使節として支倉常長をヨーロッパへ送り、海を超えて諸外国との直接的な外交を試みた。支倉はスペインの国王やローマ法皇への謁見は叶ったものの、外交を結ぶに及ばず帰国。すると、日本は鎖国政策が始まっていたのだ。
「鎖国の世では、異国から持ち帰った品々は幕府に納めなければならなかった。けれども、伊達藩が苦労して得た異国の文化を、この霊廟に残したのではないかと考えられています」
こうして厨子に西洋の文化を描くとは幕府も考えつかなかっただろう。よく見ると他にもハート、ダイヤ、スペード、クローバーといった意匠があしらわれているという。

ライトアップされた庭園を巡ることも

円通院を訪れて中田がしばらく足をとめて見入ってしまったもの、それは美しい庭園だった。境内には4つの庭園があり、七福神を意味する嶋を配した石庭や、薔薇の庭をお目当てに多くの人が訪れるのだ。
「実は円通院も住職を持たず、管理もままならない時代もありました。この庭園も戦時中は畑だったということです。少しずつ手入れをして現在の姿になりました」 と天野さんは話してくれた。
春は芽吹いたばかりの新緑を、夏は深い緑と花々を、秋は紅葉やライトアップした夜の景色を。四季折々の豊かな表情を見せてくれる庭園は、訪れる人を和やかな気持ちにさせてくれる。

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