江戸風鈴を作り続ける「風鈴職人」篠原儀治さん/東京都江戸川区

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涼しげに鳴る風鈴

夏の風物詩、風鈴。軒先で鳴る静かな音に、いっときの涼をえる。日本人なら誰でも経験したことのある夏の一風景だろう。そのとき軒先で鳴っているのは、丸く膨らんだ透明なガラスに絵が描きこまれた江戸風鈴かもしれない。
もともと風鈴の起源は中国にある。ただし、現在の風鈴とはまるで違い、風鐸(ふうたく)と呼ばれるもので、青銅製の鐘であった。中国では占いの道具として使われていたが、ガランガランと大きな音をたてることから、日本では厄除けとして使われていた。現在でもお寺にかかっていることがあるという。現在のようにガラス製のものが作られ始めたのは1700年ごろのこと。長崎に伝わったガラスを使い、見世物として江戸や大阪などの都市で興行が行われていたという。

江戸風鈴の名付け親

明治に入り、日本で独自にガラスが作れるようになると、一般庶民でも軒先に風鈴を吊るすことができるようになった。
と、ここまで「江戸風鈴」と何気なく書いてきたが、江戸風鈴という名前がつけられたのは、1965年頃のこと。今回はその「江戸風鈴」の名付け親である篠原儀治さんにお話を伺った。
「風鈴屋は、北九州、名古屋、大阪、東京、全国にあったんですよ」
篠原風鈴本舗の会長を務める、二代目の儀治さん。今も現役で息子の裕さんとともに、ガラスに息を吹き込み風鈴を作り続けている。東京向島に生まれこの道一筋。幼いころから家業を手伝い、戦争への徴兵を経て、戦後、物不足の時代にもガラス吹きの道具をかきあつめて風鈴を作り続けた。問屋がつぶれたときは、風鈴を吊るす台をかついで売って歩いたという。そして東京で作り続けられている風鈴を「江戸風鈴」と名づけた
そのうちに百貨店で売ってみないかと声をかけられた。実演会は大盛況になり、全国の百貨店も風鈴の実売を始めたそうだ。新たな開拓が江戸風鈴の火を絶やさなかったのだ。

変化する風鈴の絵

江戸風鈴というと透明のガラスに絵が描いてあるという姿をイメージするが、もともとは赤いガラスに絵が描かれていたものだったという。赤い風鈴には、宝船や松の絵を描いていたそうだ。そして、裏側に米俵1俵。
「米俵は庶民にとって夢の夢。大金が入ったら、米俵を買おうってね。私の代になってから今度は小判を描いたんですよ。おやじは生きれてば110歳だけど、あの世で今の風鈴を見てびっくりしてるだろうな」そう言って笑う。

江戸風鈴の現在地

現在は、招き猫、あじさい、東京の町並みを描いたもの、多くの絵が描かれているのだ。篠原さんが110歳になるころには、またびっくりするような絵が風鈴に描かれているかもしれない。

ACCESS

有限会社篠原風鈴本舗
東京都江戸川区南篠崎町4-22-5
URL http://www.edofurin.com/
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