そのむかし雪国青森では綿の栽培は難しかったため、布は大切に使われた。着古した着物は最終的に裂き、地機で織り込んで仕事着などを作るようになるが、これが後に南部裂織(なんぶさきおり)と呼ばれるようになる。小林輝子(こばやしてるこ)さんは創始者の想いを受け継ぎ、南部裂織の魅力を令和のいまに広めようと奮闘中だ。
南部裂織とは

この土地ならでは、といってもいい南部裂織の歴史的背景
「物を大切にする女性たちの知恵」から生まれた南部裂織は200年以上の伝統があり、その歴史は江戸時代まで遡る。雪深い青森では綿花が育ちにくく、北前船で運ばれた木綿や古手木綿はとても貴重だったため、その頃の農家は栽培した天然繊維の麻を織物にして着ていた。はぎれも粗末にせずに重ねて刺し子にしたり、最後には裂いて繋いで一枚の布に仕上げたりしていた。南部裂織の原型だ。
明治26年に鉄道が開通すると木綿の着古された布がこの地方にも流通するようになり、農家たちは麻袋を解いた糸を経糸(たていと)に、そして使い古した布を細くテープ状に裂いて緯糸(よこいと)にして地機(じばた)で織り込むようになった。厚くて手触りがゴワゴワとした裂き織りは、冷たい風が吹き荒れるこの地方には親和性があり、仕事着やこたつ掛けとして使われてきたという。「このようにして、この地域の人々は寒さを乗り越えるために様々な工夫をして生きてきたんです」と小林さんは話してくれた。
多種多様であるとともに、全て一点ものという仕上がり

「麻糸と1㎝くらいの幅に裂いた古い木綿を地機で織る」というとてもシンプルな織物なのにもかかわらず、織り方の種類は決して少なくない。最も基本的な平織(ひらおり)、布と糸を交互に織り込むサグリ織り、整経するときに2色の糸を掛けてできる市松織り(いちまつおり)や網代織り(あじろおり)、斜めの目が面白い引き返し織り、布の中に模様をつくる綴れ織り(つづれおり)などと、そのほかにもバリエーションは数多い。
現在では地機を使った伝統的な技法を活かしながら、仕上がりがとてもカラフルなこたつ掛け、トートバック、ベッドカバー、タペストリー、スリッパなど、現代の生活にマッチした様々なアイテムが制作可能だ。
そして南部裂織の大きな魅力のひとつに、「世界のどこにもないオリジナルの物を作ることができる」というものがある。「たとえ同じ布を使ったとしても、どのタイミングで織り込むか、また織る際の力の入れ方によっても、全く風合いは変わってしまうんです。同じものを作ろうと思っても、二度と作れません」と小林さんは笑う。「南部裂織の一つひとつが唯一無二」と言われる所以でもある。
南部裂織保存会のはじまりは奇跡的な出会いから
それは小林さんの妹、1971年当時35歳の菅野暎子(かんのえいこ)さんが、好きだった叔母の形見分けに臨んだところから始まる。ボロボロで誰もいらない、とでもいうように部屋の隅に紫の裂織の帯が置いてあったが、菅野さんはその味わいのある色と丹念に織られた風合いに強く惹かれてしまい、「誰もいらないなら…」と持ち帰ったという。そしてその帯を見れば見るほど、菅野さんは温もりのある手織りの表情に魅せられて、裂織を知りたいと強く思うようになっていった。
しかしその頃には「着古した衣類やボロを織ることが恥ずかしい」として南部裂織はすでに消滅しかけていたが、そのルーツと織り方を教えてくれる人を根気よく探し歩き、翌年に十和田湖町の”東山きゑ”さんと”赤坂みせ”さんに辿り着く。二人から「裂織なんかやっても一銭にもならないよ」と言われて断られていたが、誠意を持って何度も通っているうちにようやく教えてもらえるようになったという。
燃えるような情熱で南部裂織に捧げる人生

菅野さんはもう一度南部裂織の価値を見直すとともに、技術と精神を学んで自らも継承者となり、1975年7月7日の棚機の日に南部裂織保存会を設立。自宅で「さきおり教室」を始め、裂織の普及に心血を注ぐとその功労を高く評価され、「青森県伝統工芸士」に認定されるなど多くの受章に輝く。
また「より多くの方々に南部裂織を知ってもらいたい」との想いから、何年にもわたって十和田市に掛け合い、2002年道の駅「とわだぴあ」の隣に十和田市の施設として、匠工房「南部裂織の里」のオープンにこぎつけた。75台ほどの地機がずらりと並ぶさまは壮観で、そのほとんどは菅野さんが集めたもの。「十和田市内・南部地方はもちろん、情報を聞きつけては福島県などを訪ね歩いて集めた機もあるようです」と、愛おしそうに地機を眺めながら小林さんは教えてくれた。
菅野さんは2003年10月に保存会設立30周年記念南部裂織フェスタin十和田を成功させると、2004年3月に他界した。がんを患っていたが最後まで隠していたという。享年67歳だった。
姉が想いをつなぐ

ボロを織るのが恥ずかしいと思われる時代だったため、当初世間体が悪く、南部裂織否定派だったという小林さん。ところが菅野さんが南部裂織に携わって10年ほどした頃、ちょっとしたきっかけで南部裂織をやってみるとすぐその魅力に取りつかれる。「織り機に座って、布に触れて織るというのが心底楽しくて、当時疲れていた私には本当に癒やしでした。気づけば夜中の1時、2時なんて当たり前。私が南部裂織に真剣に向き合うようになったのはそれからです」と小林さんは笑う。
現在では南部裂織保存会の会員は130名で、その多くは主婦だ。女性は子育てなど様々な悩みや苦労があるものだが、「それをここに全部捨てていきなさい」という創立者の想いを受け継いでいて、ここに来てストレスをためるようなことは一切ないように努力しているのだそう。また、何時集合・何時解散という決まりが無いという毎週水曜日開催の教室で学ぶ生徒は50名ほどで、仲が良いため常に笑いが絶えず、市の文化祭に向けて1年に1アイテムは作って全員提出できるよう進めている。
教室以外に体験することもでき、外国の方や児童・生徒の団体も多いのだそうだが、「特に子供たちにとっては新鮮らしく、楽しそうに織っているんですよ」と小林さんは目を細める。ここに体験に来て「お父さん、この織り機が欲しいから買ってほしい」とねだった子もいたのだそう。体験した人の数は11,000人を超えたという。
創始者の想う、南部裂織のあり方を守る

緯糸(よこいと)に使う使い古した布は、ホテルや旅館の浴衣が届いたり、相撲部屋など全国からの寄付でまかなっているのだそう。「お婆さんが亡くなった、母親が亡くなった、でも捨てるにもったいないから引き取ってくれますかと言って送ってくれる方もいらっしゃいます。だから、みんなに支えられているんです」と小林さん。
そうやってたくさんの人々に支えられながら南部裂織を広めたいと思っている小林さんだが、「芸術家を養成する施設ではないんです、後世に裂織を伝えてつなげていくのが一番です」とも話す。まだ菅野さんが運営していた時、愛好者が多くなった他の自治体から「コンテストをやりたいから企画して審査してください」とオファーがあったそうだが、裂織は絶対に競争するものではないとの信念から、ピシャリと断ったのだそう。小林さんは「裂織は競争するもんじゃない、全て一等賞。自由に、自分の感性で好きなようにやればいいんです。それは妹から引き継いだ強い想いのひとつでもあります」と話してくれた。
会の半世紀の軌跡とこれからの試み

2025年に南部裂織保存会はちょうど50周年を迎え、その記念事業として「次世代につなぐ」をテーマに記念作品展・無料体験会を開催し、受け継いできた手技を見せる500点以上もの作品、各教室で織りつないだ50mの織布を展示するなど、様々な挑戦も試みている。「南部裂織は地元の誇るべき文化で今後の地場産業にもなりうる」との想いから、伝統的なものに加えて現代にもマッチした裂織も製作・販売中だ。フランス在住の日本人デザイナーから、男性用スーツのための藍染の裂織布地のオーダーがあったことも。
「今はスイッチを押すと電気で何でも動くでしょ。昔と変わらず自分の手足がエネルギーとなって物が作れる、と子どもたちに伝えていかなきゃダメだと思っています。南部裂織が色あせないのは、ものを大事にするという誰もが持ち合わせている気持ちがあるからなんでしょうね。もっとたくさんの人に知っていただくのが私の使命です」と小林さん。南部裂織の伝統と創始者の想いを引き継ぎ、また、誰もが居場所のある社会にするべく、今日も小林さんたちはいろとりどりの経糸(たていと)に、裂いた布を緯糸(よこいと)にして一段一段織りこんでいく。



