輪島塗の原点を見つめ、未来につなぐ。塗師・赤木明登さん/石川県輪島市

日本を代表する漆器のひとつ「輪島塗」。赤木明登(あかぎ あきと)さんが作る器は、洗練されたデザインと温かみのあるたたずまいで多くの人を魅了する。2024年、輪島塗の産地である石川県輪島市は、能登半島地震で甚大な被害を受けた。赤木さんは輪島塗の源流を見つめながら、産地の復興と再生に取り組んでいる。

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丁寧な手仕事から生まれる、丈夫で美しい輪島塗

能登半島の先端に位置する石川県輪島市は、「輪島塗」の産地として知られている。500年以上の歴史を持つ輪島塗は国の重要無形文化財に指定されており、世界に誇る漆器として名高い。

輪島塗の特徴は優れた耐久性にある。例えば椀の縁などに布を貼る「布着せ(ぬのきせ)」。傷みやすい部分をあらかじめ補強することで、耐久性は格段に向上する。下地材に使う「地の粉(じのこ)」も輪島塗独特の材料だ。地の粉とは、輪島で採掘される珪藻土(けいそうど)を焼いて粉末化したもので、下地の漆に混ぜて塗ることで硬度が上がる。こうした丹念な手仕事によって、「100年もつ」といわれる輪島塗が生み出される。

124もの工程を分業制で担う

もうひとつの特徴は、124もの工程を支える分業制だ。器の木地を作る「木地師」、漆を塗り重ねる「塗師(ぬし)」、金粉などで装飾をほどこす「蒔絵(まきえ)師」など、それぞれの工程を専門の職人が担当する。分業制によって産地全体で効率的に生産できるだけでなく、職人は各工程に特化して技術を磨くことができる。こうして輪島のまち全体がひとつの漆器工房のように機能し、優れた品質の輪島塗が完成する。

輪島塗と出合い、編集者から塗師に転身

輪島塗の塗師・赤木明登さんは、漆塗りの仕上げである「上塗り」を手がけながら、器作りのディレクションも行っている。全国各地で開く個展はいつも盛況。ドイツのディ・ノイエ・ザムルング美術館に作品が収蔵されるなど、海外での評価も高い。

赤木さんが輪島塗の世界に入ったのは1988年のこと。東京で編集者として忙しい日々を送っていた頃、輪島塗の名工・角偉三郎(かどいさぶろう)氏の器と出合った。

角氏は輪島塗の「異端児」とも「革命者」ともよばれた人物。輪島塗作家として早くから頭角を現して数々の公募展で入選を重ねたが、能登の暮らしに根ざした古い器に魅せられて公募展から退き、日常使いの器を作り続けた。漆器の原点を問い続けた角氏の器は生命力にあふれ、赤木さんはその力強いたたずまいに衝撃を受けたという。

赤木さんは角氏の器の魅力に引き寄せられるように輪島に移り住み、下地職人に弟子入りして技術を学んだ。

暮らしに寄り添う器を作る

赤木さんが作るのは、鑑賞するための器ではなく、使うための器だ。そこにはシンプルで洗練された美しさがある。

「輪島塗にはきらびやかな美術工芸品のイメージがありますが、本来は輪島の暮らしと深く結びついた器だったはずです」と赤木さんは言う。「暮らしと深く結びついた器」の形や色にこそ、美しさがある。赤木さんはそう考え、輪島塗がまだ実用の器だった頃、特に江戸時代の器の写しを数多く作ってきた。輪島に息づく美しさ、豊かさとは何か。赤木さんは常にそう問い続けながら、器の形を追求している。

地震で倒壊した工房を再建するプロジェクト

2024年の能登半島地震は、輪島塗の産地を直撃した。地震被害を受けた輪島塗事業者は全体の8割超。多くの職人が生活と仕事の場を失い、廃業した人、県外に避難したままの人も多い。

被災した職人の中に、赤木さんとともに美しい形を長年追い求めてきた木地師がいた。86歳の池下満雄(いけした みつお)さんだ。地震の後に赤木さんが池下さんを訪ねた時、工房は無残にも倒壊していた。池下さんは崩れた工房の前に2日間座り込んだまま動かず、3日目に意識を失って救急搬送されたという。「池下さんを絶望したまま死なせるわけにはいかない」。赤木さんはすぐさま工房の再建を決めた。

「池下さんの家は江戸時代から代々木地師。彼の体には古くからの美しい輪島塗の形がしみ込んでいます。だから池下さんと仕事をしていると、彼のご先祖と一緒に仕事をしているように感じられた」と赤木さんは言う。その技術を絶やすわけにはいかなかった。

赤木さんが立ち上げた「小さな木地屋さん再生プロジェクト」には多くの賛同者が集まり、地震から約3ヶ月という早さで池下さんの工房再建が完了。がれきだらけの街の中にひとつの灯りがともった。市外の2次避難所から戻った池下さんは工房の再建を喜び、再び木地を挽き始めた。

ひとりの木地師から、次世代にバトンが渡された

しかし、池下さんには後継者がいなかったため、赤木さんの工房から2人の弟子が出向して木地挽きを教わることになった。「この子たちが一人前になるまで長生きする」と張り切っていた池下さんだったが、再建から間もない2024年7月、静かに息を引き取った。

池下さん亡き後、かつて角偉三郎氏の椀を挽いていた木地師が工房を引き継いだ。しかし被災後の心労が重なっていたのか、椀を20個挽いたところで倒れ、帰らぬ人に。現在はその息子が工房を継いでいる。彼は被災後に木地師をやめて県外で職を得たが、赤木さんの説得もあり、輪島に戻って再び木地を挽くことにしたという。赤木さんの工房から出向した2人の弟子も、新たな親方を得て技術習得に励んでいる。池下さんの技と魂が宿った「小さな木地屋さん」は、こうして次の世代へとつながれた。

失われていく能登の景観を再建する

赤木さんは地震後、輪島の景観を取り戻す活動にも力を注いでいる。もともと輪島市内で古民家を改修したオーベルジュと出版社を営んでいたが、いずれの建物も地震で損壊。特にオーベルジュの被害は大きく、再建には長い時間がかかると分かった。そこで急遽、海辺の集落にあった出版社の建物を修繕し、オーベルジュの仮店舗をオープンすることにした。

海辺の集落で仮店舗の工事を進めていた赤木さんは、集落の多くの家屋が全半壊し、解体を待っていることを知る。全半壊した建物の解体は全額公費でまかなわれるが、修繕や再建をする場合は自助が原則。高齢化、過疎化が進み、空き家も多い集落で再建はままならず、やむなく公費解体を申請する人も多いという。

この集落では、板張りの外壁に格子をはめ、黒い瓦屋根をのせた伝統的な家屋が多く、統一感のある美しい景観を形作っていた。公費解体が進めばこの景観は失われ、二度と取り戻すことはできない。赤木さんは「能登の景観の歴史的・文化的な価値を守りたい」と仮店舗の周囲にある2軒の家を買い取り、もとの姿に再建することを決めた。

さらに「ここを拠点になりわいを再生すれば、若い人の定住にもつながる」と考え、これらの家を弟子の住まいとブックカフェとして活用する予定だ。

能登半島地震による公費解体の申請数は、2025年3月現在で約3万8,000棟にのぼる。これらの中には修繕すれば住み続けられる建物も少なくない。「このまま景観を考慮することなく解体を進めれば、個性のない画一的な町並みに変わってしまう。景観の価値にもっと目を向けてほしい」。赤木さんが公的支援に頼らずに自力で再建できる範囲は限られているが、能登の伝統的な景観を未来につなぐ大切さを発信し続け、活動の輪を広げたいと思っている。

輪島塗のふるさとを未来につなぐ「器屋」でありたい

塗師の仕事と景観の再建は、はたから見れば関連性がないように思うかもしれない。しかし赤木さんの中では、すべて同じ「ものづくり」であるという。「形あるものはいつか壊れる。それは逃れられない運命です。僕にとってのものづくりは、壊れていくもの、失われていくものにあがらい続けることなんじゃないかな。地震を経験してそのことを強く実感しました」。

失われた古い時代の輪島塗の美を掘り起こし、倒壊した木地師の工房を再建して技術をつなぎ止め、消えゆく能登の景観をよみがえらせる。赤木さんの「ものづくり」は、必死にあらがい続ける中で形になっていく。

「僕は器屋なんですよ」と赤木さんは言う。「お椀はもちろん、人が入る家も器。たくさんの人が入るまちも器です。ものづくりを通じて輪島の器を未来につなぐことが、器屋の自分に与えられた仕事だと思っています」。50年後、100年後の赤木さんの「器」は、どんな形をしているだろうか。輪島の美しい器をつなぐ物語は、これからも続いていく。

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赤木 明登
石川県輪島市
TEL 非公開
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