「未来の伝統」を創る。人間国宝・福島善三さん/福岡県朝倉郡

福岡県中央部東側に広がる朝倉郡東峰村は「小石原焼」と呼ばれる焼き物の産地。この地で長い歴史を誇る「ちがいわ窯」十六代・福島善三さんは重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている名工だ。地元の土や釉薬にこだわりつつ、新しい小石原焼の可能性を追求し続ける福島さんの器の魅力とは。

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伝統は創り、進化させていくもの

福岡市中心部から約1時間余り、1,000m級の山々に囲まれた福岡県朝倉郡東峰村(とうほうむら)は、自然豊かな美しい里山だ。なかでも小石原(こいしわら)地区は、陶器づくりに適した土、窯の燃料となる木々、釉薬の原料となる長石や藁灰、その原料になる稲や小麦に恵まれ、1600年代後半から焼き物づくりが盛んに行われてきた。

小石原焼には多彩な伝統的技法があるが、代表的なものが「飛び鉋(とびかんな)」と「刷毛目(はけめ)」だ。飛び鉋は、ろくろを回しながら鉋(かんな)の刃先を器に当て、規則的に小さな削り目を入れて文様をつけていく技法で、刷毛目はその名の通りろくろを回しながら刷毛(はけ)で文様を描いていくもの。どちらも素朴で温かい雰囲気が感じられ、小石原の多くの窯元でこの技法を使った生活雑器がつくられている。

質より量の時代に危機感を感じ、新たな作風を模索

福島さんのギャラリーには、いわゆる典型的な小石原焼は並んでいない。独特の青を纏った青磁作品が多く並び、形の美しさと柔らかく透明感のある色合いに「これも小石原焼なのか」と驚く。これらの作風が誕生するまでには、福島さんの長きにわたる挑戦の日々があった。

幼い頃から祖父や父、職人たちがろくろを回す作業場が遊び場だった福島さん。子どもの頃から家業を継ぐと決めていたため、ほかの有名産地も見ておきたいと大学時代に全国を巡った。しかし、多くの産地を訪ねて再認識したのは“小石原のろくろ技術の高さ”。それならば地元で学ぼうと決め、帰郷してからは、一日で湯呑み200個、徳利100本と、数をこなしながら修行に励んだ。

当時は民芸運動の活発化が影響し、日常で使える民芸陶器の需要が急激に高まっていた。もちろん、九州地方も同様。それもあって丈夫な上にシンプルで日用として生活に取り入れやすいデザインだった小石原焼は、広く消費者に受け入れられるようになり、作れば作るだけ売れたという。

福島さんが子どもの頃には9軒しかなかった窯元も30軒近くに増えたが、一方で質より量の価格競争が始まっていた。そんな状況を憂い、福島さんは「自分にしかつくれない小石原焼を」と新たな作風を模索し始めた。

県展、そして日本伝統工芸展へ

まず着手したのは釉薬の勉強だった。鉄分が多く、焼成時の縮みも大きい小石原の土と地元の原料でつくった釉薬を使って、いかに自分らしい作品をつくるかをテーマに、伝統的な小石原焼の技法を用いて試作を繰り返した。こうして完成した作品を福岡県美術展覧会(県展)に出品。見事入賞を果たした。

しかし、県展の会場である福岡市に足を運んだ際に立ち寄った日本最大の公募展「日本伝統工芸展」で福島さんは衝撃を受ける。

「こんなにもレベルが違うものなのか」。

そこから福島さんの新たな挑戦が始まった。「まずはいいものを見つづけることが大切」と日本伝統工芸展の図録を暗記するほど読み込んだ。小石原で誰も手がけたことのない新しい作風に挑む福島さんにとって、図録が師匠だった。

目指す作品をイメージしながら、「粘土×釉薬×焼成温度」と「時間×冷却時間」を組み合わせながら、果てしないほどの試行錯誤を重ねる日々。ちょうどその頃、小石原で最も古い1682年の窯の発掘が始まり、磁器や染付の茶道具など、現在の小石原焼からは考えられないようなものが多数出土した。当時の小石原は福岡藩の庇護のもと、殿様向けの多彩な器を焼いていたのだ。

それら出土品を目の当たりにし、福島さんは「飛び鉋や刷毛目も昭和に入って誕生した技法で、300年以上つづく小石原焼の歴史から見るとほんの一部。自分の挑戦も未来の小石原で“伝統”と呼ばれているかもしれない。外の声に揺らぐことなく自分を信じよう」と心に決めた。

小石原でしかつくれない青磁を

こうして福島さんは、無骨な雰囲気のある旧来の小石原焼とは相反する、見た目に透明感のある青磁づくりに着手した。

「小石原の粘土は鉄分が多く扱いにくいが、デメリットをメリットに変え、ここでしか作れない青磁を作りたい」。そう決意して土づくりや釉薬などを独学で研究し完成させたその青磁は、窯のある地域の古称である中野と、美しい色合いを合わせて「中野月白瓷(なかのげっぱくじ)」と名付けられ、福島さんの代表作となった。鉄分が多く黒い小石原の土に、青白い釉薬「月白釉」をかけて焼き上げた同作品は、柔らかく優しい青色で、たちまち見る人の心をつかんだ。エッジの黒い部分は釉薬を削って元の土の色を出し、小石原焼の匂いを残しているのも特徴のひとつだ。

この作品を初めて出品したのは第60回の「日本伝統工芸展」。飛び鉋や刷毛目の文様がないこの作品に対し、当時の工芸界からは「これを小石原焼と呼んでいいのか?」と問われることもあったが、福島さんは「すべて地元の原料を使い、小石原でろくろを回して釉薬をかけ、焼き上げたのだから正真正銘の小石原焼。新しい作風に挑戦し続けなければ次の時代の伝統は生まれない」と自信をもって出品した。

そこから10年間、毎年形や貫入の入れ方を変えるなど、月白瓷の表現の可能性を広げながら作品を出品し続け、その結果、当初は驚きを持って迎えていた見識者たちにも月白瓷の美しさが認められ、第70回「日本伝統工芸展」で「高松宮記念賞」を受賞した。

そんな唯一無二の世界観を表現すべく、福島さんは粘土や釉薬づくりから、ろくろでの造形、焼成まですべての工程をひとりで行っている。「分業化が進んでいる窯元の作家をオーケストラの指揮者と例えるならば、私はシンガーソングライターです」と笑う。

人間国宝認定が被災地を勇気づける

2017年7月、九州北部豪雨が小石原を襲い、窯元42軒のうち11軒が土砂流入などの被害を受け、地区全体に暗い影を落とした。その2週間後、福島さんが57歳という若さで「重要無形文化財保持者(人間国宝)」に認定されたという明るいニュースが被災地に届く。

「正直、小石原焼で人間国宝になれると思っていなかったし、地域が大変な時に喜んでいいのかとも思ったが、小石原焼の発展のためにも非常にありがたいと感じた」と福島さん。

そのニュースは小石原焼に携わる人たちに大きな勇気を与えた。福島さんが人間国宝になったのを機に、既存の技法にこだわらず新しい作品をつくりたいという若手も増えた。また、水害をきっかけに小石原焼が全国的に注目され、産地としても追い風も吹き始め、地域に活気がもたらされた。

「こうして50代で人間国宝の認定をいただいたことには、“これからつづく作家人生、もっと挑戦しろよ”というエールが込められているのだと捉えています。重圧もあるし、生みの苦しみもある。今でも日々、失敗の連続です。しかし、失敗を糧にして学ぶことが何より力になる、それだけは確かだと信じています」。

人間国宝という名誉を与えられ、ますます創作意欲が湧くようになったという福島さん。

その作品からは伝統とは守るべきものだけではなく、新たに創造できるものだというメッセージが伝わる。

今後、その手からどんな小石原の伝統が誕生するのか、楽しみでならない。

ACCESS

福島善三さん
福岡県朝倉郡東峰村小石原978-2
TEL 0946-74-2056
URL http://www.koishiwarayaki.jp
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