瑞巌寺再建までの長い歴史
伊達政宗の菩提寺である瑞巌寺。正式には「松島青龍山 瑞巌円福禅寺」といい、創建は遥か平安時代まで遡る。「天台記」に残る記録によれば創建は天長5年・828年、慈覚大師 円仁が淳和天皇の詔勅を受けて「天台宗延福寺」を開山したとされている。
鎌倉中期には北条時頼の命令により、天台宗から臨済宗へ改宗することになった。改宗は北条氏が軍事力をもって天台宗の僧侶を追い出したとされ、荒々しい出来事として記録が残っている。この時、法身禅師が「臨済宗 円福寺」として開山するが、戦国時代には次第に衰退していった。
そして、伊達政宗がこの地を治める時代になると、心血を注いで寺院を再建し、瑞巌寺として現在も残る建造物が造られたのだ。政宗の希望で呼び寄せられた雲居(うんご)禅師、寺院の整備に尽力した洞水(どうすい)禅師、法身禅師の三人を開祖としている。近代では、廃仏毀釈や廃藩置県により、寺領の撤廃の憂き目をみたが明治時代から少しずつ復興を遂げた。
伊達政宗の厳しい決め事
この日は総務課長の千葉洋一和尚にご案内いただき、特別公開中の国宝 庫裡(くり)に足を運ぶ。創建の際、本堂と庫裡に使う木材は和歌山県熊野山の山中から切り出して海から運び、宮大工は名工を呼び寄せて建設したという。さらに、千葉和尚からこんなお話を伺った。
「伊達政宗から宮大工へ大変厳しい命令がありました。ひとつ、決して土足で立入ってはいけないこと。もうひとつ、当時は貴重だった材料の釘や鎹(かすがい)の1本も、誤って落とした物は使用してはいけない、というものでした」
それほどの気概をかけて建設された本堂と庫裡は、約400年の歴史で一度も火災にあうことはなく、桃山様式の建築物として国宝に指定されている。
松島湾と五大堂
松島といえば、海にせり出した五大堂の姿を思い起こす人も多いのではないだろうか。五大堂は、坂上田村麻呂が蝦夷討伐の際に毘沙門堂を建てたのが始まりとされ、後に、円仁が延福寺を創建する際、大聖不動明王を中心に、降三世(ごうさんぜ)、軍荼利(ぐんだり)、大威徳(だいいとく)、金剛夜叉(こんごうやしゃ)の五大明王像を安置したと伝えられている。
260にも及ぶ島や奇岩が浮かぶ松島湾を見渡すように建てられた現在の御堂は、伊達政宗が瑞巌寺を再建した際に建てられたもの。桃山建築の技術の高さを残し、33年に一度、ご開帳が行われるという。中田が訪れたのは早朝。朝日に染まる五大堂がひっそりと佇んでいた。