伊達政宗も気に入った、600年の歴史をもつ雄勝硯
国の伝統的工芸品にも指定されている雄勝硯は、口伝によると約600年前、室町時代にその起源を遡ることができる。文書として残っているものでは陸奥仙台藩の藩祖伊達政宗が、献上品として手にした硯をいたく気に入ったという記録が残っている。また、その息子で第二代藩主の伊達忠宗も、硯師の作り出す雄勝硯の美しさに魅入られて、硯師を藩お抱えにしたという。さらには、雄勝硯のもととなる雄勝石を産出する山を 「お留山」 と称して、一般の採掘を禁じた。
それほどまでに人を魅了した硯。その技を現在まで継承し、職人がひとつひとつ丹念に掘り上げているのが、雄勝硯なのだ。
雄勝硯の採掘現場へ
取材時、最初に連れて行ってもらったのが雄勝石の採掘場所。そそり立った壁のような山肌が印象的な場所だが、案内してくれた雄勝硯生産販売協同組合の高橋さんが言うには、「今立っているこの場所も、もともとは山だったんですよ」 とのこと。つまり、中田が立っているその場所に平地はなく山だったということ。
以前、山梨県では雨畑硯のために使う石の採掘現場を見学させてもらったが、そこは洞窟のような場所だった。雄勝石はそのように掘り下げていく方法ではなく、露出している部分を削り取っていく 「露天掘り」 という方法で採掘している。だから、その山肌はすべて雄勝石。削り取った石は、美しい部分が硯になり、加工しやすい部分は建築の屋根材や床材に使われているという。
職人が彫り出す雄勝硯
600年の歴史を持つ雄勝硯は硯の有数の産地として、国内生産される硯の9割近くを生産していた。そのため、職人さんも多くいた。完全に分業で作業は進められ、石を採掘する人、彫りを入れる人、磨く人と多くの人が作業に携わっていた。しかし、雄勝町は牡鹿半島の入り江に位置し、東日本大震災では住居、工房、ライフラインのほとんどに大きな被害を受けた。現在は仮説商店街に組合事務所と工房を構え、完全分業とまではいかないが多くの人が硯作りに励んでいる。
今回はその工房へ足を運び、硯職人の遠藤市雄さんの作業を見学させてもらった。遠藤さんはこの道50年のベテランだ。
驚いたのは、ノミの使い方。普通、手でぎゅっぎゅっと力を加える姿を想像するが、ここでは違う。ノミの持ち手のお尻の部分を肩にあてて、体全体で押し込むように石を削っていくのだ。そうしないと硯の形には彫れていかないのだ。それが終わると繊細なノミを使い、平らにしていく。こちらは逆に繊細な作業。何より平らでないと墨がうまくすれないのだから。
ただし、これで終わりではない。ヤスリをかけてさらにきれいにしていく。ちょっと触ってみてと遠藤さんが硯を差し出す。さすが、つるつるにできている、と感心したのだが、実は 「これじゃまだ粗いんですよ」 という。さらに目を細くするというのだ。
「目が細かいために墨をするのに、ほかのものと比べていくらか時間がかかる。だけど、すりあがった墨は光沢が出る」 と遠藤さんは説明してくれた。山から切り出した石。それを人の力で硯の形にし、時間と手間をかけて磨いていく。そうしてできあがった硯は、ひとつの芸術品のようにも見えた。