北川弘繪(きたがわひろえ)さんは、糸紡ぎから糸染め、絣括りや紋織の構成、機(はた)織りまですべての工程をひとりで行う、手紡木綿(てつむぎもめん)の数少ない作り手のひとり。北川さんが作る精巧な文様の帯や着物は、日本の伝統に則りながらも、伝統だけに留まらない発想が息づいている。
木綿糸を手紡ぎし、織る手紡木綿
手紡木綿とは、木綿から糸車を使って糸を紡ぎ、その糸を植物等で染色し、手織り機で布地を織ること。岡山県倉敷市の自宅兼工房で手紡木綿の制作をする北川弘繪さんは、手紡木綿で女性ものの帯や着物を織り始めて数十年が経つ。北川さんが手掛ける織物にはファンが多く、問屋に卸せば、すぐに完売してしまうほどだという。彼女の作品は、それほどまでに魅力的であり、需要が高いということだろう。
出雲織との出合い
手紡木綿を始めるずっと以前から、北川さんは「もの作り」への情熱があった。 趣味で日本画や水彩画、銅版画に親しんでいたが、ある時、知人の勧めで自身の作品を展示会に出展。しかし、いざ自分の作品が他人の目にさらされた途端、裸で壁に吊るされているような恥ずかしさを覚えてしまったという。
「何か表現できることを求めていましたが、『自分』が出ているのを感じた途端、嫌になっていました」と振り返る。
あるとき書店に立ち寄り、染織に関する業界雑誌を何気なく手にとったところ、出雲織作家の青戸柚美江(あおとゆみえ)さんの工房が研修生を募集していることを知った。出雲織について詳しくは知らなかったが、ひらめくものがあり、すぐに連絡を取って入門が許された。42歳のときだった。
自我が現れない創作
出雲織は、野良着として使われていた綿絣が元にある。普段着として丈夫なもので、青戸さんの工房のある島根県安来市では、江戸時代から農家の女性が農作業の傍らで木綿から糸を紡ぎ、天然藍で糸を染めて織っていた。こうした昔ながらの絣に近代的な模様をもたらし、「出雲織」として確立させたのが青戸さんだ。北川さんは青戸さんのもとで糸紡ぎから始めて、昔ながらの模様織りを2年間学んだ。
「表現できること」を求めながら、作ったものに自我が出てしまうことを嫌悪した北川さんだったが、織りものをしている間は、その感覚に悩まされることはなかった。「仕上がりを見たとき、自分らしいものだと思うけれど、『自分』が具体的にあらわれてはいないんです。それは『織り』というルールのなかで創作しているからでしょうね。性に合ったんだと思います」と語る。
17〜18世紀のアメリカの織物を参考に
出雲織を学んで倉敷に戻ると、青戸さんの紹介で問屋から帯の制作依頼が来るようになった。始めは昔ながらの模様を織っていたが、物足りなさを感じることがあった。そんなときに見つけたのが、17〜18世紀の開拓期にあったアメリカで流行した織物の図案をまとめた本。ベッドカバーや寒さをしのぐための壁掛け、床に敷くラグとして使われていた織物が紹介され、その素朴で自由な模様と色使いに惹かれた。図案をひとりで読み解き、インスパイアされたものを織っていくうち、面白くてたまらなくなった。この気持ちが今も継続し、北川さんの創作のなかで遠い国の柄が日本の伝統と融合している。
織りたいものに合わせて糸を紡ぐ
創作は、木綿から糸を紡ぐことから始まる。緯糸(よこいと)となる糸を大量に紡いで染めておき、織り始める段階で使うものを選ぶ。木綿は日本の地綿(じわた)を含め、インド綿、アメリカ産の綿、メキシコ綿などを使い分けている。産地によって木綿の性質は大きく異なり、着物に適しているのは繊維が細く、長い糸が紡げるエジプト綿。それぞれの特性に馴染みながら紡ぎ、織って行く。
糸車と一心同体になる
北川さんは、今使っている中古の糸車を「分身」だと言う。実は機(はた)の信頼できるメカニックが身近にいるのだ。倉敷市で手織り機とその付属部品を作る『竹泉堂』の樋口正和さんだ。樋口さんはこれらの構造に精通し、織り手との関係をたちまち見抜く。年数が経った中古品は、それまで使っていた人の癖が出てしまうことが多く、北川さんもそこに悩み、樋口さんに相談した。すると、「自転車の『輪っか』を持っておいで」と言われ、使いづらかった糸車は樋口さんによって自転車の車輪を付けられ、みごとに調整された。
「この糸車を使うと、木綿から出た繊維が、『ほかの繊維と絡みたい、絡みたい』と言っているみたいにすんなりと紡ぐことが出来るんです。夢中になって何日も夜中まで紡いで、もう月まで届くほどやったかなと思って、計算してみたくらい」と北川さんは笑う。
北川さんと樋口さんが育った倉敷には、倉敷民藝館付属工芸所として設立された『倉敷本染手織研究所』がある。樋口さんはここで子どもの頃から手織りの世界にふれてきた。また北川さんは高校生のとき、倉敷民藝館の初代館長・外村吉之介(とのむら・きちのすけ)の講演を聞いて、「もの」と「装飾」の関係を熟考した。ふたりは手間をいとわない姿勢が共通している。
たとえば織り手に馴染んだ古い機は、新しい機よりも良い布を仕上げることが度々ある。「要するに、目の前にあるものに合わせてやればいい」という。ふたりとも効率を追わず、材料や使う機械を知って、馴染みながらやって行く術を身につけている。
機に向かうまでが、制作の9割。
思いどおりの色に染まった糸が用意できたら、ようやく機に向かう。このときが、もっとも楽しい時間だと北川さんは語る。ここに至るまでが制作の9割。しかも1時間に1寸から2寸(3〜5センチ)ほどしか進まない手織り。それでも始めると目の前に織ったものが広がっていく。そのよろこびは何ものにも代えがたい。
作ったものに自分が映る。
北川さんが作る帯や女性ものの反物は幅広い世代から求められている。創作で心がけているのは、「自分を清らかに、誠実に生きていくこと」。それは仕事の領域だけでなく、毎日の暮らしにおける姿勢だ。「作ったものにはやはり、作り手が映るんです。しかも私が作るものは身に着けるものですから、清らかなものを手渡したい。作り手がきちんとした生き方をしていなければ、良いものは生まれないと思っています」と語る。
紡いだ糸に合わせて織れば、よく織れる。手間をいとわずやれば、味わいが生まれる。そうして完成させた反物は、着るほどに体に馴染んでいくのだ。動力駆動を用いた紡績により、布地は短時間で大量に生産できる時代となったが、それでも染色から糸を紡いで織るまでを一貫して自身の手で行い、そのナチュラルな風合いやデザインが唯一無二と評される北川さんの作品を求める人は少なくない。そんなニーズに応えるため、そして、何より北川さん自身が手織りにしか生み出せない良さを知っているからこそ、これからも“北川弘繪の感性”を手織綿織物で表現しつづけていく。