160年以上の歴史を持つ武の井酒造は、2007年に新たなブランド「青煌(せいこう)」を生み出した。修業時代に感銘を受けた花酵母と酒米、そして社名の由来にもなった手掘りの井戸から汲み上げる八ヶ岳の伏流水で醸す日本酒。杜氏が自信を持って後世に引き継ぐぶれない酒造りとは。
150年以上続く老舗酒蔵

今から160年以上前、慶応年間、江戸末期の頃から蔵を構える老舗酒蔵が山梨県北杜市にある。「武の井酒造」、その名前は初代清水武左衛門(しみずぶざえもん)の「武」の字と、八ヶ岳の伏流水が湧く10mの手掘りの井戸の「井」に由来している。社名を冠した「武の井」という銘柄を代々造り続けてきた家族経営の酒蔵に、「青煌(せいこう)」という新たなブランドが誕生したのは18年前(2007年)のことだった。「すっきり爽やかで、飲み続けやすい味わい。冷やして飲むのがおすすめです」。そう語るのは青煌ブランドの立役者である専務執行役杜氏の清水紘一郎(しみずこういちろう)さんだ。
新たなブランド「青煌」

現在ではリブランディングや最新の醸造法へチャレンジするなど、市場のニーズに応えながらも独自の酒造りを行っている武の井酒造。しかし、清水さんが修業を積んで北杜市に戻ってくる18年前までは、現在とは違い低価格の酒を造っていたそうだ。「当時はビールやワインが台頭し、日本酒の需要が時代とともにだんだん少なくなってきていた時でした。そこで逆境における差別化の意味も込めて新たな酒を造り始めたんです」。起死回生を懸けた新たなブランド名には、透き通る綺麗な水をイメージした“青”と、日本酒業界が世界に向けて“煌めいて欲しい”という思いを込め、「青煌」という名前がつけられた。
修業時代に感銘を受けたつるばら酵母と雄町(おまち)

日本酒の醸造に欠かせない存在として酵母がある。肉眼では見えない小さな微生物のことで、原料である酒米の糖分をアルコールと炭酸ガスに換えるアルコール発酵の役割を持っている。酵母は主に酒の醪(もろみ)から分離したものを使用するのが一般的だが、武の井酒造では自然界に咲く花から分離した“花酵母(はなこうぼ)”を使用している。もともと東京農業大学在学中に花酵母の研究をしていたという清水さん。卒業後に修業を積んだ茨城県の来福酒造で様々な種類の花酵母を使った酒造りを経験したことが、今のスタイルの原点になっているそうだ。
「自分が造るお酒に一番向いているなと感じたのはつるばら酵母だったんです」。つるばら酵母とは東京農業大学の醸造学科酒類学研究室がつるばらから分離させることに成功した酵母で、醸造される酒には、リンゴや洋なしを思わせる香りと力強い味わいがあらわれるのが特徴だ。修業時代につるばら酵母と雄町の組み合わせに感銘を受けたという清水さん。「雄町とつるばら酵母を使ってすっきり爽やかに仕上げる酒は、全国で類を見ない。ここでしか造れない味わいになっていると思います」。その言葉に揺るぎない自信があらわれる。杜氏を引き継ぐ際も、清水さんがブランドの核となる商品として注力したのが、岡山県産の酒米「雄町」を使った「純米吟醸 雄町」だったという。現在青煌ブランドではこのつるばら酵母による醸造で差別化をはかりつつ、多品種の酒米を用いた様々なラインナップが展開されている。
浸透していく青煌の魅力
青煌ブランドがリリースされると、その斬新な味わいに購入者からは大変好評を得た。その反面、まだまだ花酵母が一般的に認知されていないということを実感する。「そもそも酵母が何かわからない方も多いと思う」と、敢えて特徴的な花酵母をメインで宣伝することに重きを置いていないのだそうだ。
「飲んでもらって味を体感してもらう事を大事にしているんです。飲んだ後に『これが花酵母か』と感じてもらえれば、その良さが徐々に浸透していくんじゃないかと思っています」
八ヶ岳の意外な贈り物

「すっきり爽やかな味わいを造り出すのには水の良さが非常に重要なんです」。水を重要視し、全ての酒を八ヶ岳の伏流水で仕込んでいると話す清水さん。酒蔵のある北杜市は八ヶ岳の伏流水が豊富で、社名の由来にもなった10mの手掘りの井戸からそれを汲み上げて使用しているのだそうだ。伏流水に含まれるカルシウムとマグネシウムの濃度によって軟水、中軟水、中硬水、硬水と分けられる。土地が狭く傾斜が急ですぐに海へ流れ出してしまう日本の水は地中でカルシウムとマグネシウムを吸収する時間が短いため、濃度が低い軟水となる場合が多い。しかしここ八ヶ岳の伏流水は複雑な地層の影響を受けているため、軟水ではなく中硬水が汲み上げられる。「つるばら酵母は発酵力が比較的弱い酵母ですが、硬度のある水がそれを助ける『元気の素』みたいになってるんです」と清水さん。使いたい原料と地域の特性が偶然合致し、目指す味わいを造り出すことができたのがとても嬉しかったと、この地で酒造りを始めた当時の思いを振り返る。美味しい酒を造ろうと研究を重ねる職人に、八ヶ岳の大地は思いもよらない形で応えてくれたのだ。
変えない、ぶれない酒造り

清水さんのこだわりは、ブランドとしての味わいを変えない。「ぶれない」ということ。長年酒造りをしていると、その年の酒米の質や環境の要因などで、少しずつ酒の味が理想からぶれてしまうことがある。それをいかに「武の井」「青煌」という枠の中に収めるかが難しいポイントなのだそう。味わいを一定にするためには香りなど、原料の“長所”と言える部分を抑えることまであると言う。なぜそこまで“ブランドの味わいを変えない”ことにこだわるのか。その理由は自分の造った酒を楽しみに飲んでくれる「お客様」にあった。
「同じ名前が付いていてもまったく違う味わいになっていたりと、世間を見ていると味が変わっていくお酒も結構多い。もちろん酒蔵によっていろいろな考え方があるのですが、僕は飲んだ人の印象に一番残るのはその時の最初の味だと思っています。だからその時の印象を裏切りたくないんです」
味わいを後世へと残すために

2017年には長年愛され続ける「武の井」ブランドにも新たな変化があった。従来の製品展開に加えて、酒米の精米歩合や使用される原料などの厳しい条件を満たした酒だけが名乗ることができる「純米吟醸」や「特別本醸造」といった「特定名称酒」が新たに仲間入りしたのだ。しかしそんな変化の中にあっても、「ひとごこち」という山梨県北杜市で栽培されている酒米を使用するなど、地域密着の酒造りは続けられている。「青煌」だけでなく「武の井」のブランドにおいても清水さんの今まで受け継いできた味わいを変えない、ぶれない酒造りは生きている。
これからの展望についても、今あるものをもっとブラッシュアップしていく方向で世間の認知を上げつつ、ブランドの味わいを変えることなどは一切考えていないそうだ。「すっきりと爽やかで飲みやすい青煌の味わいは、必ずこれからも受け入れられ続ける。長く愛され、残っていくお酒だと思っています」。そう語る清水さんの言葉には、自分の造っている酒への確かな自信と、それを楽しみに待ってくれているユーザーへの責任感が滲んでいた。積み上げてきた実績と信頼を糧に、青煌の変わらぬ味わいは後世へと引き継がれていくだろう。



