石川県七尾市能登島(のとじま)で、野菜の有機栽培を行う「NOTO高農園(たかのうえん)」。農園を営む高利充(たか としみつ)さん、博子(ひろこ)さん夫妻は土作りに力を注ぎながら、レストランやホテル向けの野菜を専門に栽培している。能登島の赤土の力で育てる野菜は、濃い味わいと豊かな香りで星付き店のシェフたちを魅了する。
世界農業遺産に認定された能登の暮らし

「能登はやさしや、土までも」。能登の人情深い土地柄を表す時に、よく使われるフレーズだ。
能登半島は三方を日本海に囲まれ、面積の大半を山地が占める。能登の自然は豊かな恵みをもたらすが、時折容赦(ようしゃ)のない荒々しさを見せる。人々は自然の豊かさ、厳しさと折り合いをつけながら、互いに寄り添って生きてきた。能登の「やさしさ」は、こうした環境のもとで培われたものだ。
厳しくも美しい自然と人々の営みが形作る「能登の里山里海」は、2011年、国連食糧農業機関によって日本初の「世界農業遺産」に認定された。四季折々の自然と対話しながら営む農業のあり方は、古くからの能登の暮らしそのもの。石川県七尾市の「NOTO高農園」も、能登の自然と共生する農業を実践してきた。
能登島へ移住し、農業を始める
能登半島の中ほど、東に向けてぽっかりと口を開ける七尾湾に小さな島が浮かんでいる。人口約2000人の能登島だ。起伏に富んだ島の西部、海を遠望する高台にNOTO高農園はある。
農園を営む高利充さん、博子さん夫妻が能登島にやって来たのは25年前のこと。福岡県で会社員として働いていたふたりは、利充さんの「農業をやりたい」という言葉をきっかけに就農を決めた。「ふたりとも食べることが大好きだったから」と博子さんは笑うが、ゼロからの新規就農、縁もゆかりもない土地への移住は、かなり思い切った決断だ。
どこで農業をやるか。候補地は全国にいくつかあったが、有機農業を行う知人の伝手(つて)を頼って能登島を訪れた時に「ここだ」と感じた。のびやかな山と海の眺め、ゆったりと流れる時間、美しい四季の移ろい、そして人のやさしさと温かさ。島の環境に一目ぼれしたという。
能登島の野菜は、赤土でゆっくり育つ

能登島の土は赤い。鉄分を多く含む赤土はきめが細かく、保水力がある。野菜は赤土の中で時間をかけて根を伸ばし、ゆっくりと養分を吸収して育つため、凝縮した味わいになるという。

NOTO高農園では農薬や化学肥料をほとんど使わない。土壌分析を行って草や緑肥を土にすき込み、貝化石やカキ殻など海のミネラル分を入れながら丁寧に土作りを行ってきた。
「動物性の堆肥が手に入りづらい場所だったこともありますが、なるべくこの土地にあるもので土作りをしようと思って」と利充さん。環境に寄り添い、人にも畑にも優しい農業を続けてきた結果、害虫や病気の発生も少なく、農薬が不要な環境になっているという。
雪の下でじっと耐え、甘みを蓄える

真冬の農園を訪れると、畑は一面雪で覆われていた。雪の下には、秋に種をまいたカブや大根が植わっている。「土の中で凍らないように、野菜は自ら糖分を蓄えるんです」と博子さんが教えてくれた。能登島の厳しい寒さのもとで、冬野菜はぐっと甘みを増す。
シェフたちの要望に応える「少量多品種栽培」

ハウスの中をのぞくと、香り豊かなハーブやみずみずしい葉物野菜、色とりどりのエディブルフラワーが所狭しと並び、まるで植物園のような賑わいだ。
現在、NOTO高農園で栽培する野菜は300種類以上。能登島の赤土で丹念に育てた野菜はプロの料理人の間で評判をよび、星付きレストランをはじめ全国100軒以上の飲食店やホテルなどから注文が入る。

時にはシェフ自ら農園に足を運び、栽培のリクエストをすることも。「シェフのニーズに応えているうちに、どんどん種類が増えてしまって」と笑う利充さん。ふたりでレストランに出かけて野菜の使い方や見せ方などを学び、栽培に生かすことも多いという。
少量多品種栽培というスタイルは、「愛される野菜を作りたい」というふたりの情熱から生まれたものだ。
地震と豪雨、2度の被災。復旧の遅れが大きな負担に

2024年1月1日に発生した能登半島地震は、能登島も大きく揺らした。島と半島を結ぶ2本の橋は通行止めとなり、島内の道路はあちこちで崩落。NOTO高農園でも納屋や作業所が損壊、ハウス内のコンテナはひっくり返り、畑には大きな地割れが発生した。
特に水の問題は切実で、灌漑(かんがい)設備が壊れて畑に水が届かなくなったため、畑に水をやることも、出荷前に野菜を洗うこともできなくなった。幸い、近隣の農家が地下水を提供してくれることになったため、タンクに水をくんでトラックで運ぶことになったが、毎日数往復の運搬や人力での水やりは大きな負担となっている。
地震から1年以上が過ぎた今も、状況はほとんど変わっていない。灌漑設備は地域の農家が共同で管理しているため、全員の合意がなければ復旧工事に着手すらできないという。後継者がいない高齢農家も多く、合意形成は簡単ではない。能登島の農業の未来を見据えて話し合いを重ね、ようやく合意の道筋が見えてきたばかりだ。
さらに人手不足による負担ものしかかる。NOTO高農園には9人のスタッフがいたが、家の損壊やインフラ復旧の遅れなどを理由に、5人が泣く泣く農園を離れて島外に引っ越していった。復旧の長期化は人を流出させ、事業の再建をはばむ原因となる。
さらに同年9月、農園は再び災害に見舞われた。後に激甚(げきじん)災害にも指定された能登半島豪雨だ。地震後に整地をした畑の一部が崩れ、芽を出したばかりのカブや大根が流されてしまった。
取引先のシェフたちが前を向く力をくれた
地震に豪雨と、たび重なる苦難にくじけそうになる利充さんと博子さんの支えとなったのは、取引のあるシェフたちの存在だ。地震後すぐに、あるシェフから「力になりたい。野菜を洗う水がないなら土付きのままで構わないから、今ある野菜を引き取らせてほしい」と連絡があった。「大丈夫、俺たちがついてるから」と畑にやって来て作業を手伝ってくれるシェフもいた。
豪雨災害の後、ふたりは野菜を待ってくれている人たちのために全力で畑を復旧し、祈るように種をまいた。無事に収穫できた野菜はいつもより小さなサイズだったが、取引先のシェフたちは「小さい野菜も使いやすいね」と喜んでくれたという。

「たくさんの人とのつながりが、心の支えだったよね」と顔を見合わせてうなずくふたり。前を向く力をくれた人たちにおいしい野菜を届けることで、感謝を伝えたいと願う。
NOTO高農園のこれから

能登島で農業を始めて25年。時間と手間と愛情をかけて土を作り、豊かに実る畑となった。今ふたりが目指しているのは、50年後、100年後もこの畑が続いていく環境づくりだ。「25年前に能登島の人たちが温かく受け入れてくれたように、後に続く人のためにこの赤土をつないでいきたい」。今、歩みを止めないことが、農園を支えてくれた人々と能登島への恩返しになると考えている。
能登島での農業を持続可能な形で次世代に渡すため、災害復旧がひと段落した後にやってみたいことがあるという。それは「人がつながる拠点」を作ることだ。シェフが滞在して野菜の味見をしたり、農業に関心を持つ人が作業体験をしたり。さまざまな人と人とがつながって、農業の可能性が広がっていく。そんな拠点となる農泊施設を整備したいという。利充さんと博子さんが描く未来には、温かな人のつながりと豊かな赤土がある。
「能登はやさしや、土までも」。
NOTO高農園で育つ野菜は、やさしく、滋味深く、力強い。その味わいは、能登の風土そのものだ。