福井県小浜市にあるとば屋酢店は、江戸時代中期の創業で300年以上も続く米酢の醸造元だ。全国的にも珍しい「壺(つぼ)」で純米酢を仕込む伝統を守り続けながら、情報発信や新商品開発にも積極的に取り組んでいる。とば屋酢店の伝統は、現代に輝きを増している。
京の食を支えた小浜で酢を醸造
とば屋酢店は若狭湾国定公園の一部を成す小浜湾に面した小浜市にある。日本海の豊かな海産物に恵まれる小浜市は、かつて「若狭国(わかさのくに)」と呼ばれ、朝廷に海産物を献上する「御食国(みけつくに)」のひとつだった。後の江戸時代には小浜藩となり、北前船の拠点として栄えた。また、小浜でよく獲れたサバを京都に運んだことから、小浜から京都につづく道は「鯖街道(さばかいどう)」と呼ばれ、現在は日本遺産にも認定されている。
小浜名産に欠かせない米酢
小浜から京の都に運ばれる海産物は、塩や酢を伴うことによって保存性が高まり、現代まで続く「小鯛のささ漬け」や「鯖寿司」といった特産品が生まれた。小鯛のささ漬けは小浜を代表する珍味で、レンコダイともハナオレダイとも言われる小鯛を三枚におろし、うす塩をして酢で締め、笹の葉を添えて小さな杉樽にぎっしりと詰める。小浜で作られている小鯛のささ漬けや鯖寿司の多くに、とば屋酢店の米酢が使われている。
「壺(つぼ)」で300年以上仕込み続ける
とば屋酢店の看板商品である「壺之酢(つぼのす)」はその商品名が表すように、一抱え以上もあるような大きな壺の中で仕込む純米酢。酢蔵の床下深くまで敷き詰めたもみ殻の中に、おおよそ300ℓの容量の壺が30個埋められている様子は壮観だ。この壺で発酵・熟成させる酢の造り方をとば屋酢店は300年以上守り続けている。
お米の旨味と甘味を感じる純米酢
アルコールに酢酸菌を加えると、発酵する過程でアルコール分が酢酸に変わり、酢ができる。純米酢であれば、一般的に純米酒に酢酸菌を加えて発酵させた後、熟成を経て完成となる。壺之酢も原理は同じだが、とば屋酢店では、「甘酒」と「種酢(たねず)」を使って仕込む独自製法を守り続けている。
材料となる甘酒は、福井県産米の「華越前(ハナエチゼン)」を蒸し、自家製米麹、地下からくみ上げる水、純米酒を加えて55℃で丸一日保温して作る。種酢とは前回仕込んだ酢のことで、活きのいい酢酸菌がたっぷりと含まれている。この甘酒と種酢を混ぜた仕込み液を直接壺の中に注ぎ、壺の周囲に敷き詰めて保温しながら1〜2ヵ月発酵させる。このとき、表面に「酢酸菌膜(さくさんきんまく)」が徐々に表れてアルコールを分解していくと酢ができる。表面にきれいな膜が分厚く張っているのが、いい具合に発酵を終えたサインだ。これを3分の1ほど残して次の仕込みの種酢にする。
発酵を終えた酢は、さらに木樽に移して2ヵ月以上熟成させる。熟成後も、材料の甘酒に含まれる蒸し米が大量に残っているため、絞る工程が必要になる。甘酒を濾過せず、そのまま仕込むのはとば屋酢店ならではの伝統製法であり、米の旨味を酢にたっぷりとプラスする狙いがある。その後、ろ過、殺菌の工程を経て、壺之酢となり出荷される。その味わいは、米の旨味と甘味が活きており、酸味も角がなくまろやかだ。料理の味を引き立てるのはもちろん、ツンとこないので薄めてそのまま飲んでも美味しい。
料理を引き立てる「旨い酢」
大手メーカーなどで取り入れられている一般的な酢の造り方は「連続発酵」という方法で、強制的に空気を送り込むことで発酵を早め、わずか数日で酢が出来上がる。一方、とば屋酢店の壺之酢は「静置発酵(せいちはっこう)」という伝統的な製法で、かき混ぜずにそのまま置き、酢酸菌の力のみで発酵させるので実に4ヵ月以上もの長い時間がかかる。とば屋酢店が現代においても長い時間と手間をかけて壺之酢を造り続けるのは、「料理を引き立てる旨い酢」へのこだわりに他ならない。しかし、こだわりは認知されてこそ価値になる。「店への“共感”を広げたい」と語る13代目の中野貴之さんは、とば屋酢店のこだわりや歴史を現代の消費者に知ってもらうための取り組みにまい進してきた。それは壺之酢という商品名が生まれた頃にさかのぼる。
300年の伝統を「見える化」する
その後、東京農大の醸造学科に入学した中野さんは、在学中に友人の協力を得てとば屋酢店のホームページを開設した。卒業後は東京大学大学院を経て経営コンサルタント会社に入社。そこで3年間経験を積んだ後、2005年に小浜に戻り、とば屋酢店での勤務を始めた。コンサルタント会社で顧客コミュニケーションの大切さを痛感した中野さんは、とば屋酢店と消費者との距離を縮める取り組みを強化した。まず、学生の頃に作ったまま放置していたホームページをリニューアルし、商品をネット通販で買えるようにした。さらにとば屋酢店の歴史やこだわり、壺之酢を造る工程なども詳細に紹介。その後も、消費者がより見やすく、より買いやすくなるようにリニューアルを繰り返し、新規客の開拓につなげてきた。
家族経営の小さな蔵が自力でネット通販に取り組むのは苦労があったという中野さん。やり切れたのはコンサルタント時代の経験が大きかったと語る。付き合いのあった大企業では業務改善のサイクルを繰り返しており、それは企業の規模を問わず重要だと考え、とば屋酢店でも取り組んだ。現在、ネット通販は新しい売上の柱として成長している。
時代を捉えた新商品を次々に開発
さらに中野さんは新商品開発にも力を入れた。壺之酢とアカシア蜂蜜をブレンドした飲む酢「お酢蜜」、簡単に酢の物が作れる「お手間かから酢」、「手作り塩麹キット」など今に続く人気商品を次々に開発していった。
新商品の中でも中野さんが特に「可能性がある」と期待を寄せるのがお酢蜜だ。飲料用の酢の市場は黒酢や果実酢などが火付け役となって拡大傾向にあり、全国的にも2020年の家庭用食酢の市場規模調査で飲用が調理用を上回ったほど。
中野さんは健康志向の高まりを見据え、飲む酢の商品ラインナップを強化している。最近では、お酢蜜に免疫力を高めると言われる成分を配合した商品や、壺之酢に血糖値が上昇しにくい「マゲイシロップ」と果汁を加えたフルーツ酢は、ネット通販を中心にリピート客をつかみ、売れ行き好調だ。
海を渡った伝統の純米酢
とば屋酢店の看板商品である壺之酢の価格は大手メーカーの米酢と比べて倍近い。それでも壺之酢の売れ行きは堅調だ。「壺之酢だからうちの味が出せると使い続けてくれる料理店などの顧客も多い」と中野さんは言う。
現在でも地元・小浜の魚屋やすし屋、料理屋のほとんどがとば屋酢店の得意先だ。地域との支え合いの中で300年以上守り続けた伝統的な酢造りは、とても手間と時間がかかり、他の蔵では見られなくなっている。だからこそ価値があると気付いた中野さんの新たな取り組みによって、とば屋酢店の認知度は高まり、海外からも注目されるようになっている。2010年には、パリのフランス料理店にパイプを持つバイヤーからの要望で「さくら酢」を新たに開発した。『さくら酢』は壺之酢をベースにした甘酢に桜の花びらを1年間漬け込んだもので、ミシュランの星を持つレストランなどで使われた。今も春に数量限定で出荷している。また、壺之酢や飲む酢がバイヤーを通じてヨーロッパやオーストラリア、台湾にも出荷されるようになった。
酢を作るのは、発酵という“神の業”
変化する時代に合わせた数々の商品開発で、酢のニーズを開拓してきた中野さん。これからも新たな挑戦を続ける一方で、先代から受け継いだ「自然の力に感謝、ありがとうという気持ち」は決して忘れないと力を込める。
壺之酢には、発酵という人の技術を超えた「神の業」が働いていると語る中野さんは、「発酵は自然の力。人間にできるのは条件を整え待つこと」との思いで、今日も受け継いだ仕事を繰り返す。