山形県村山市。豪雪地帯といえる場所で400年以上も酒づくりを続けているのが「高木酒造」だ。十五代目当主を務める髙木辰五郎さん。「十四代」というあまりに有名な看板を背負いつつも、脈々と紡がれてきた伝統に技術的革新を織り交ぜながら飽くなき未来への挑戦を続ける。
創業400年を超える老舗酒蔵
山形県の中央部に位置する村山市。豪雪地帯ゆえの豊富で清澄な雪解け水に恵まれた場所で、高木酒造は江戸時代初期の1615年より代々酒づくりを行っている。高木酒造といえば、日本のみならず海外にもその名をはせる銘柄「十四代」があまりにも有名。日本酒を嗜まない人でも、一度はその名を耳にしたことがあるに違いない。「十四代」を抜きに、高木酒造を語ることはできないだろう。
その高木酒造を杜氏として率いているのが髙木顕統(たかぎ あきつな)氏だ。2022年に父である先代が亡くなったことをきっかけに、2023年4月には代々髙木家の当主が名乗る「辰五郎(たつごろう)」を十五代目として襲名したという。
「聲(こえ)なきを聴き、像(かたち)なきを視る」酒づくり
1年のうちで最も酒づくりに適していると言われるのが、寒さ極まる12月から2月頃だ。日本酒は温度変化に弱く、非常にデリケートなもの。適切な温度管理をしないと劣化してしまうが、それは流通・販売時に限らず、製造過程でも同じだ。髙木さんによれば、気温は大体摂氏0度、室内の温度が6度くらいが良いのだとか。空気が冷たくないと米の中までうまく冷えず、雑菌の繁殖にも繋がってしまう。もちろん夏でも空調により6度まで冷やすことはできるが、やはり自然の寒さと空調によって冷やされた空気は異なる。冬に仕込んだ酒と5月から9月頃に仕込んだものでは、同じ酒でも味が全く違うというから驚きだ。そのため、高木酒造では1月〜2月のいちばん寒い時期に、いちばん大事な酒を集中してつくっているという。
しかし高木酒造があるエリアの冬は極めて過酷だ。12月から2月の最低気温はゆうに0度を下回り、1月や2月には2メートルほどの積雪になるという。「村山は豪雪地帯。冬は厳しいが、その分豊富な雪解け水に恵まれており、酒をつくるには非常に素晴らしい地域。髙木家の先祖はこの地の水の素晴らしさに気づき、ここで酒づくりを始めたのかもしれない」と、髙木さん。
米を洗い蒸しあげてから日本酒となるまで、およそ45日かかるという。その間に様々な工程を経るわけだが、髙木さんが一貫して心掛けているのは、「菌たちの環境をどうよくしていくか」だという。酒を醸す微生物たちは声も形も見せてはくれない。しかし毎日接していると、日々発酵している音の出方や香り、醪の面(つら)で微生物たちが何を訴えているかが分かってくるのだとか。それはまさに、高木酒造が掲げる「聲なきを聴き、像なきを視る」という社訓そのものだ。
目に見えぬ微生物の力を最大限に引き出し、他の追随をゆるさない酒づくりを行う髙木さんだが、今に至るまでにはさまざまな紆余曲折があった。
幻の酒「十四代」が生まれるまで
高木酒造の敷地内には酒づくりを行う場所の他に、髙木家の母屋、つまり髙木さんが生まれ育った実家もある。かつての酒蔵では、当主は当主、蔵人は蔵人、そして杜氏は杜氏とその役割が分かれていた。「酒蔵のおやじは居間にどんと腰を据えて、酒造り全行程を見ていたのでは」と髙木さんは想像する。実際のところ、30年ほど前は杜氏を雇っていたという。しかしその人物が高齢を理由に引退。それが、髙木さんが実家に戻ってくるきっかけのひとつとなった。
「酒屋の長男なのでいつかは家を継ぐとは思っていたものの、蔵の経営の陣頭指揮だと思っていた。まさか自分で酒を造ることになるとは」と当時の心境を語る。自身の将来を見据えて高校時代から上京し、進学した東京農業大学では醸造を学んだ。とはいえ杜氏を目指していたわけではない。就職の段になり、蔵の経営のために流通を学ぼうと職を得たのは新宿の伊勢丹クイーンズシェフ。酒売場の担当として流通の現場を肌で学んでいた時、父親から一本の電話を受けた。その内容は「杜氏が引退する。自分は県会議員をやっているので蔵のことは見られない状況だが、どうする?」というものだった。「帰ってこいとも、会社を継げとも言われなかった。ただ『どうする?』とだけ」と髙木さん。25歳のことだったという。
日本酒への思いが、東京にいたいという気持ちに勝った
当時主流だったのは淡麗辛口のクリアな日本酒だったが、小さい頃から実家で嗅ぎなれていた酒の香りとは何かが違うとずっと感じていた。そんな折、東京は三軒茶屋の店で、とある一杯の日本酒に出会った。福島県の酒で、山田錦を使った芳醇でうま味のある生酒だったという。その酒に対し「小さい頃にずっと嗅いでいた匂いと似ていると皮膚感覚で思った」という髙木さん。このような酒を世の中の人に飲んでもらいたい、こういう酒を造りたいという思いが、「東京にいたい」という気持ちを上回った瞬間だった。
帰郷した髙木さんが目の当たりにしたのは、厳しい蔵の状況だった。地元では酒の値引き合戦が激化。また先代である父は、地元を愛するが故、自分たちの利益を追求した商品を売り出すことにためらいがあったとも。そのような事情に加えて借金まで抱えた状況下で、蔵として出直しを図ることとなった。
ひとつだけ特許の名称審議を通過した「十四代」
「十四代」の名称が誕生したのは、ある意味偶然とも運命ともいえるような流れがあった。元々高木酒造の酒といえば、「朝日鷹」という地元では知られた銘柄だった。しかし朝日鷹とは異なる商標を付けようと思った髙木さんの祖父(十三代 辰五郎)が、「十二代」、「十三代」、「十四代」、「十五代」という名称を携えて特許庁を訪れた。ただ、当時は認可が厳しく、数字は皆が使用するからと却下されたという。その中で審議官が数字ではなく「とよしろ」とでも読んだのか、不思議と「十四代」のみが審査を通過した。
十三でもなく十五でもなく、「十四」という響きは不思議なほどすっと頭に入ってくる。そして自分がつくるすべての酒にこの名称をつけたいと先代である父に相談したところ、「その名で勝負しろ」と背中を押された。「今思えば素晴らしい商標を与えられたと思う」と髙木さんは語る。
倒れるまでに根を詰めた初めての酒づくり
酒づくりを始めるうえで髙木さんがまずやろうと思ったのは、米のおいしさを表現することだった。米は食べて甘みがあり、ボリュームがある。それを酒においても表現したい。目指すところは綺麗で辛口という当時の主流とは異なり、三軒茶屋の店で出会ったような旨口の酒。子どもの頃から見知り、今や年配となった蔵人たちとともに、髙木さんの理想の酒づくりは始まった。ただ、その過酷さは想像を上回っていた。慣れない肉体労働と細切れの睡眠時間、やり直しがきかないプレッシャーにより、髙木さんの肉体は悲鳴を上げた。つくり途中に体調を崩し、完成させた後には一週間ほど入院してしまったのだとか。しかし大学の恩師の助言も受けながら作った酒は、つくり1年目ながら思い描いていた味に近いものだった。「父に飲ませたら『よくやった』と言ってくれた」というその酒が、商品として現在も作り続けられている「十四代 中取り 純米 無濾過」だった。淡麗辛口とは違う、ボリュームのあるフルーティな味わいを持った酒だ。
出来上がった酒は、売る必要がある。髙木さんが向かった先は、東京で働いていた時にお世話になった四谷の酒販店「鈴傳(すずでん)」の会長だった。その酒を口にした会長から出た言葉は、「髙木君よくやった。これは辛口でも甘口でもない、旨口だ。最高の酒だ。私が売る」。十四代の快進撃はここから始まる。
次の代に繋げる酒づくり
確かに高木酒造は「十四代」でその名を全国に轟かせたが、それは一夜にして成し得たわけではない。伝統を守りつつも設備などに改善を重ね、次代へと継いできた。「先祖も父も、良い時も悪い時もあったと思うが、次の代に繋げるという思いが大きかったのでは」。そしてそれが、高木酒造の酒づくりでもあると髙木さんは話す。
事実、高木酒造では設備投資を惜しまない反面、人の手を使った伝統的なつくりのやり方も残している。それは、手間暇をかけた方が美味しいものができる気がしているからだという。例えば麹造り。麹室(こうじむろ)の中で、蒸しあがった米に麹菌をまき、およそ50時間をかけて麹を作っていくのだが、その作業にも人の手が関わっている。麹を撒くのはもちろん、積み重なった麹蓋(こうじぶた)を数時間ごとに積み替えて温度を一定にするのも人力で行っている。箱の中には麹菌をまかれた米が入っており、その外側を守る麹蓋の年季の入り方が、歴史の長さを感じさせる。髙木さんによれば、これは元々の酒づくりの基本だという。出来の良い麹からは栗の香りがすると言われるが、使い込まれた麹蓋を用い、人の手で丁寧に作られた麹からは、より強い栗の香りが漂う。それは手作業で麹を育てたからこそ醸し出されるものだ。排除できる部分でもあるが、あえて残しているのは、このような作り方や麹の香りの違いを社員に体感してほしいからだという。それはまさに、機械化では感じられない、伝統の香りだ。
研究を重ねた自社開発米を全国の若手醸造家へ
高木酒造で刮目すべき点は他にもある。それは自社で開発した3種の酒米があることだ。名をそれぞれ「龍の落とし子」「羽州誉」「酒未来」という。酒造好適米は食用米と比べてなかなか数が少なく、昔は兵庫あたりから持ってきていたそうだ。しかし、寒い地域でよりおいしい酒を造るためと、先代である髙木さんの父が自社米の開発に着手した。
しかし「品種改良にも10年かかる」と言われるなかで、自社米の開発は当然のごとく難航したが、農家の協力を得、試験田を作ったりしながら、髙木さんの代で何とか成功。さらに、初めはその米で酒をつくるのも難しく、麹や酵母に何を使うべきかを見極めるにも数年を要したという。
その努力の結晶の一つである「酒未来」。この酒米は自分たちだけで利用するのではなく、全国の若手醸造家に渡し、酒づくりに役立ててもらっているのだとか。それはまさに、これからの日本酒業界を光輝かしいものにしてほしいという願いを込めて髙木さんの父がつけた「酒未来」の名にふさわしい使われ方ではないだろうか。
十五代目・髙木辰五郎の矜持
髙木さんが実家に戻ってきた当時、蔵人は10人いないくらいだったという。それが今や高木酒造の社員は31名、製造は16名にまで増え、蔵人も地元出身の若い世代が多いという。何故地元出身者が多いかというと、やはり村山の厳しい自然に慣れているから。この環境の中で極めようと思える人でないと続けていくのは難しい。何故なら、酒づくりは地道な作業だからだ。毎年米の状況は異なる中で、消費者に美味しいと思ってもらう商品を常に出さなければならない。望む味わいに達しないことがあれば、一歩ずつ改善をしていく。この繰り返しだ。「日本酒がすごく好きだからこそ、毎年一年生という気持ちで酒づくりに臨み、自分の舌を信じておいしさを突き詰めていくしかない」と髙木さんは語る。
そのおいしさが評判を呼んだ銘柄「十四代」は、今やおいそれと買えないほどのプレミア価格が付くこともある。髙木さんももちろん認知はしている。ビジネス的には人気が出れば供給を拡大しようとなりそうなものだが、大量生産にシフトするつもりはないという。それは、作り手として納得のいく質の酒だけを世に出し、飲む人を幸せにしたいからという髙木さんの矜持だ。
「十五代目高木辰五郎を襲名した今、会社の発展だけでなく地域の発展も考えないとならない」と髙木さん。酒の味わいにも流行があり、今の日本酒は飲みやすさや料理とのマリアージュも意識されている。昔と比べてアルコール度数も低くなっている。常に研究を怠らず、飲み手のニーズに合わせた王道の酒をつくり、きちんと流通に乗せて日本だけでなく世界の人に届ける。そしていつの日か、どこか別の国で高木酒造の酒を飲んだ人に「日本に、山形に行こう」と思ってもらえるような酒づくりを続けていきたいという。
江戸初期から村山の地で脈々と酒づくりを繋いできた高木酒造。伝統を守りつつも新しい挑戦を続ける酒蔵は、これからも飲み手や日本酒業界に衝撃を与える一本を送り出すに違いない。村山の自然と十五代目の手腕が作り出す清澄な一滴を味わってみようではないか。
※蔵の見学や試飲・販売は行っておりません。