北アルプス定倉山を源とする小川の畔の小さな集落、富山県朝日町蛭谷。この地でおよそ400年前に生まれた「蛭谷(びるだん)和紙」を受け継ぐ、ただ一人の和紙職人がいる。川原製作所の川原隆邦さんだ。原料の栽培から紙漉きまでひとりで手がける川原さん。独自の発想とセンスが光るその作品には、今、日本のみならず世界中から熱い視線が集まっている。
80代の師匠から口伝で教わった、伝統の和紙づくり
蛭谷和紙の始まりは、今から400年ほど前に遡る。滋賀県東近江市の蛭谷から、新潟県との県境に近い富山県朝日町に移り住んだ人たちが、故郷の名を取ってその地を蛭谷とし、夏は山仕事、冬に内職に勤しんでいた。その冬の内職のひとつが、和紙。昭和初期には120軒ほどの家々で和紙をつくっていた、一大産地であったという。天然の材料で丁寧に漉き上げた蛭谷和紙は、強靭でいて柔らかく、1000年保存できるほどの耐久性をもつといわれる。同じく富山の八尾(やつお)和紙、五箇山(ごかやま)和紙とともに「越中和紙」と総称され、国の伝統工芸品に認定されている。
ところが、障子紙として使われることが多かった蛭谷和紙は、時代の変化とともに需要が減少し、輝きを失っていく。あるときひとりの女性が蛭谷和紙を残したいと、漉き人から和紙づくりを習い、再興。病に倒れてからは、当時60歳を超えた夫が、病床の妻から口伝で紙漉きを教わった。20年余り製作を続けていたが、夫も80歳を過ぎ引退寸前。夫婦が半世紀以上にわたり守ってきた蛭谷和紙の灯が消えかかっていたそのとき、二人に出会ったのが、23歳の若き川原さんだった。
師匠となった米丘寅吉さんは当時83歳。体力の衰えゆえ、実際に和紙づくりを見ることは叶わなかったが、戦前、戦中、戦後と生き延びてきたその生き様、そして和紙づくりへの真摯なまなざしに心打たれた川原さんは、米丘さんのイズムを引き継ぎたいと考えた。
「郷土の文化を途絶えさせたくない、という一心でした」 肩が痛くて腕が上がらないという師匠から口頭で指示を仰ぎ、川原さんが体を動かしてやってみるという繰り返し。失敗を重ねながらも、蛭谷和紙伝統の製法と紙漉き技術を、体ひとつでひたむきに覚えていった。
ただ伝統を守るだけでは先がない。産地に頼らないものづくりを
とはいえ、当時、伝統工芸は先細りの一途だったと川原さん。「ひとりでやっているとき、ふと気づいたんです。伝統文化を守るとかいう問題じゃないな、と。和紙自体、衰退産業です。高齢の方は年金があって趣味のように続けられても、若手はやっていけない」と言う。「紐解いていけば、和紙づくりは生活のかたわらに冬の間だけやっていたもの。和紙一本で食べていくのは、そもそも無理な話だったんです」
しばらくは富山市の動物園や地元の事務所などでアルバイトをしながら、和紙づくりに関わる日々。それでも続けてこられたのは、「和紙と心中だけはするな。いろいろなことをやりながらでいいのだよ」という師匠の言葉だった。
そんな川原さんが和紙と向き合って出した答えのひとつは、産地を飛び出す、ということ。「『蛭谷和紙』というように、和紙は産地が冠に付く。でも、どこどこでつくられた和紙だから選ばれる、という時代ではなくなってきている。産地関係なく、いろいろなところで和紙がつくられ、職人が活躍できたら。和紙産業全体の底上げになるし、伝統にとらわれない和紙づくりをする人が出てきてもおもしろいと思いました」。
技術さえあれば、どこでも紙はつくれる。これからはきっと、“一人産地”の時代になる。自分はその先駆けとして、いろいろなことを試してみたい。そう考えた川原さんは、師匠亡きあと、朝日町を離れて立山町に移り住んだ。
のどかな集落で、原料を自ら栽培し、ひとりで一から和紙をつくる
「できるだけ小さなところでゼロからやってみたい。伝統という肩書きは一旦置いて、自分のスタイルで和紙をつくるために」。川原さんが選んだのは、民家が14件あるだけの小さな集落、立山町虫谷地区だ。
まずは山を開墾し、緩やかな斜面に和紙の原料である楮(こうぞ)700株を植えた。近所の畑を借りて、そこでは和紙づくりに欠かせない「ねり」となるトロロアオイを育てた。農家の納屋だった空き家を引き取り、自ら改修して作業場に。同じ場所には、妻で陶芸家の釋永陽さんが作陶する工房も構えている。
4月から11月は、山と畑で農作業。春に種を蒔いたトロロアオイは、粘料となる根に栄養を行き届かせるため、夏、花が咲くとひとつずつ摘み取る地道な作業に明け暮れる。秋には山に分け入り、まっすぐ育った楮の枝を切り落とし、作業場で蒸してやわらかくしたのち皮を剥ぐ。枝の状態を見て、これまでの経験をもとに、蒸す温度や時間も調整する。皮を剥いだら表面を削り取って内側の白い部分だけを残し、天日で干す——半年以上、自然相手の仕事が続く。
ところで、楮やトロロアオイを自分で育てる和紙職人は日本で数えるほどしかいないと言われているなか、川原さんがこうして栽培も手がけるのは、蛭谷和紙の特徴でもあり、また和紙の未来のことを考えてのことでもある。
「以前新聞に、茨城県の農家がトロロアオイの栽培をやめるという記事が載っていました。5件のトロロアオイ農家がいなくなると、日本の手漉き和紙の80〜90%の原料が不足する、という話も聞きます。和紙産業の危機ですよね。だれかに頼っていると、そちらがダメになるとこちらも共倒れになる。海外の安い楮もあり、輸入品に頼る職人も少なくない。けれどやはり身近な山で、自分で調達した方が愛着もわきます」と川原さんは言う。
そして冬の訪れとともに、ようやく紙漉きが始まる。力を尽くし、丹精込めて育てた楮とトロロアオイから和紙をつくるのだから、思いもいっそう強くなる。
工房では、師匠から譲り受けた大きな窯が湯気を上げている。
和紙づくりは、楮を窯で煮、水洗いして木槌で叩き、紙を漉き、重しをかけて水分を切り、乾燥させる……という工程を分業制で行うことが多いが、ここでは川原さんがひとりで全工程を担う。そのため、日ごとに行う作業を変えているという。
楮を窯で煮て灰汁出しする際は、薪を使う。「時間がかかる作業なので、夕方から煮出して朝茹で上がるようにしています。薪が熾火(おきび)になって長時間熱いままだし、そばについていなくても火元も安全。昔ながらのスタイルにこだわるというよりは、合理的なんです」
どの工程も気を抜けないが、特に大切にしているのは、楮を木槌で叩く作業だ。よく叩けばきめ細かい和紙に、荒く叩けば繊維が際立つ和紙になる。この工程でまるで異なる風合いになるため、どんな和紙をつくりたいのか、出来上がりをしっかりイメージすることが重要だという。
フルオーダーで、その人に求められる和紙をつくり上げる
川原さんは、つくったものを売る、という形はとらず、完全受注制で和紙をつくっている。紙漉きがひととおりできるようになったころ、紙問屋や専門店に営業に行ったこともある。それでも、自分で山から楮を取ってきて、泥にまみれ、手塩にかけてつくり上げた和紙はとても愛おしく、頭を下げて売るものではないと思い知った。
「いい和紙って、なんだと思いますか?どこどこでつくったもの、昔ながらの製法でつくったもの、じゃないんです。その人にとって使いやすいもの、その人が求めているものがいい和紙なんです」
そうして、人の心に刺さるものを追求し、文具や雑貨、民芸品としての和紙ではなく、工芸品、アートとしての和紙づくりに注力していく川原さん。極薄の和紙を重ねて、図柄や模様を透かして浮かび上がらせる、独自の技術と表現方法も確立した。
富山県伝統的工芸品コンクール銀賞をはじめ数々の受賞を経て、パリで行われたジャパンEXPOでのエントランス展示、フィレンツェ市長への和紙の市章献上、北陸新幹線黒部宇奈月温泉駅の内装、隈研吾氏設計によるTOYAMAキラリの壁面など、さまざまな分野からの注文が入るようになる。
富山県民会館のロビー内装に使用する和紙のオーダーでは、楮に立山杉の皮を混ぜ込み、同じく富山の名産であるガラスと組み合わせて、立山らしい色合いを美しくにじませた。
2017年には、U-50国際北陸アワードで最優秀賞を受賞。翌年には、ルーブル宮のパリ装飾芸術美術館でのイベントに招かれ、月の満ち欠けをテーマにした幻想的な和紙作品を展示。透き通るような薄さと、ほかの素材にはない和紙ならではの質感で、世界の人々を魅了した。
一方で、立山信仰に根ざした芦峅寺(あしくらじ)の雄山神社で正月に授けられる「立山護符」も、川原さんが毎年手がけているものだ。デザインは、村に残されていた江戸時代の版木をもとに復刻、手漉き和紙に1枚1枚手刷り。地元の人々にとって、心に残るありがたい1枚になっていることだろう。
表現者との出会いで広がる和紙のポテンシャル
近年の代表作に、東京虎ノ門グローバルスクエアの壁面作品がある。地下鉄の駅に直結するエスカレーターの壁一面を彩っているのが、川原さんの和紙作品だ。200平米を超える大規模な和紙を恒久設置したのは、世界でも例を見ない試み。光を透過する和紙らしく、中の照明があんどんのようにやわらかく灯って見える。
メインエントランスの受付には、虎ノ門エリアの等高線を12色の色糸で漉き込んだ壮大な和紙作品が。紙漉きに特製の型枠を用いて、縦3.5m×横10mもの一枚紙をつくり上げた。
「大きいものをつくるというだけではなく、技術的にも工夫が必要な作品でした。どんなものができるか、建物の設計担当の方と打ち合わせを重ね、その土地ならではの等高線がおもしろいんじゃないかと。和紙作家の堀木エリ子さんもデザインのディレクションに入られて、色合いなどもともに考えていきました」
これからやってみたいのは、フレンチの巨匠など、料理人とタッグを組むこと、と川原さん。「ニンジンやホウレンソウなど、食材を和紙に漉き込むというのもいいかもしれない。この人に頼めばおもしろい空間がつくれるぞ、と思われるような存在でありたい」と目を輝かせる。
デザイナー、建築家、シェフ……これからもさまざまな表現者と出会って、アイデアを掛け算していく。師匠からたった一人バトンを受け継いだ蛭谷和紙の真髄に、ほかにはない新たな発想を漉き込んで。富山から日本各地に、世界に、伝統の和紙が大きく羽ばたく。そのための挑戦はまだまだ尽きない。