かつて大津京、紫香楽宮と2度にわたって都がおかれ、昔から水陸交通の要衝として栄えた滋賀県は、歴史ある神社仏閣の宝庫である。その代表格のひとつが、紫式部が『源氏物語』を書き始めたことで知られる「大本山 石山寺」だ。琵琶湖と京都をつなぐ瀬田川のほとりに建つ寺を訪ねた。
滋賀屈指の紅葉スポットとしても知られる風光明媚な寺
滋賀県南部、琵琶湖の先端部分に位置する石山寺は、風光明媚な寺として近畿圏を中心に人気が高く、とりわけ梅や桜、青もみじ、紅葉の季節には多くの観光客や御朱印を求める参詣者でにぎわう。11月の紅葉シーズンに行われる夜間ライトアップは特に人気で、滋賀屈指の紅葉スポットとしても知られている。市街地に近く、最寄りの「京阪石山寺」駅から徒歩約10分、京都からも電車で30分以内という交通アクセスの良さも人気の秘密だ。
源頼朝の寄進によって建てられた東大門。仁王像は運慶・湛慶(たんけい)作
訪れた人を最初に迎えてくれるのは、国の重要文化財に指定されている東大門(ひがしだいもん)だ。源頼朝の寄進によって建てられ、桃山時代には豊臣秀吉の側室として知られる淀殿の寄進で修繕されたこの山門の両脇には、運慶・湛慶作の仁王像が立つ。入母屋(いりもや)造り、本瓦葺(かわらぶき)の堂々たるたたずまいに一礼して、中の参道へと進んでいく。
寺の名の由来になった、国の天然記念物「硅灰石」が生み出す風景
本堂を目指していくと、突如、波しぶきを思わせるような不思議な形の巨岩が目の前に現れる。国の天然記念物にも指定されている「硅灰石」だ。その向こうに見えるのは、源頼朝の寄進で建てられた優美な多宝塔(国宝)で、多宝塔としては日本最古だという。まるで山水画の世界に入り込んだような感覚に、おもわず足を止めずにはいられないこの風景は、石山寺の象徴といえるだろう。
ちなみに石山寺は、伽藍山(がらんやま)という標高239mの山の一部を境内としているのだが、伽藍山は至る所に硅灰石が突出した「石の山」で、石山寺も硅灰石の岩盤の上に立っている。これが石山寺の名前の由来というわけだ。
創建は747年。2021年には初の女性座主が誕生
石山寺の創建は747年(天平19年)。奈良・東大寺の初代別当(住職)だった良弁僧正(ろうべんそうじょう)が聖武天皇の命により建てた寺だ。
そのため創建当初、石山寺は東大寺と同じ華厳宗(けごんしゅう)の寺院だったが、真言宗・天台宗といった密教信仰がさかんになった平安期に真言密教の道場に変わったという。このとき初代座主(ざす)に就任したのが、醍醐寺の理源大師聖宝。2代目座主は聖宝の弟子の観賢、3代目座主には、菅原道真の孫にあたる淳祐内供…と続き、現在は、第53代座主に鷲尾龍華(わしお・りゅうげ)さんが就任している。
鷲尾さんは、祖父にあたる第51代座主・鷲尾隆輝さん、のちに第52代座主となる父・鷲尾遍隆さんのもとに生まれ、2021年12月に石山寺の長い歴史の中で初の女性座主に就任した。「この境内で生まれ育ち、子どものころからお坊さんになりたいと思ってきたので、夢がかないました」と話す。
平安時代と桃山時代の建築様式が同居する国宝・本堂
続いて、鷲尾さんに案内いただきながら、硅灰石の上に建つ国宝・本堂へと入る。本尊「如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)」ほか、弘法大師の作と伝わる「厄除不動明王」など数々の仏像が安置された内陣(正堂)は平安時代に建てられたもので、滋賀県最古の木造建築にあたる。
また、本堂の外陣(礼堂)は、桃山時代に淀殿の寄進によって建て増しされた部分で、京都の清水寺本堂と同じ「懸(かけ)造り」の手法が用いられている。ひとつの本堂にふたつの時代の様式が混在しているというのは、非常に珍しいそうだ。
本尊は日本唯一の勅封秘仏。御開帳は33年に一度と天皇即位の翌年
石山寺の本尊は、国の重要文化財に指定されている秘仏「如意輪観世音菩薩」である。秘仏を安置した内陣の厨子の前には、金色に輝く「御前立尊」が安置されている。
そして、厨子の向こうには、高さ一丈六尺(5.3m)もあるという非常に大きな木造仏、如意輪観世音菩薩が座している。平安期につくられたもので、勅命(天皇の命)によって封印されている日本で唯一の「勅封(ちょくふう)秘仏」だ。
封印が解かれ、御開扉(ごかいひ)が行われるのは、33年に一度(次回は2047年)と天皇即位の翌年と決まっている。開封式の法要では、勅使(天皇からの使い)立ち会いのもと厳粛に扉が開かれる。それが奈良時代から続いてきた。
秘仏ゆえ、本尊の拝観は御開扉時にしか叶わないが、「懸仏(かけぼとけ)」という薄い銅の鏡に彫られた観音様を見ながら、実際の姿を想像してみてほしい。
如意輪観世音菩薩は、左足を下げる姿で岩の上に腰掛けている半跏(はんか)像で、向かって左には山の神である蔵王権現、右には石山寺の創建当初から縁の深い東大寺にまつられている執金剛神を従えた三尊形式で安置されているそうだ。
また、如意輪観音は、通常は六臂(ろっぴ。6本の腕のこと)の姿で表現されるのだが、石山寺の如意輪観世音菩薩は、より古い形の2本の腕の姿であることもポイントだという。
清水寺、長谷寺と並ぶ「三観音の寺」
如意輪観世音菩薩は、安産・福徳・縁結び・厄除けの御利益をいただける観音様として信仰を集めてきた。現在も、こうした御利益を求めて若い女性参詣者の姿も多く見られるという。
平安時代には、石山寺は京都の清水寺や奈良の長谷寺と並び「三観音」と称され、京都の貴族たちの間では「石山詣(もうで)」が流行した。「都の日々の生活に疲れ、ゆったりとした空気の流れる石山へ足を向けたくなる。そんな気持ちが当時の人たちにもあったのではないでしょうか」と鷲尾さんは話す。伽藍山の緑に囲まれた、琵琶湖を望む本堂に身を置いていると、その言葉に強い説得力を感じる。
十五夜の夜、『源氏物語』はここで生まれた
ちなみに、平安時代に石山詣をした貴族の中には『源氏物語』の作者・紫式部のほか、『蜻蛉日記』を書いた藤原道綱母、『更級日記』で知られる菅原孝標女など、名だたる女流文学者たちもいた。彼女らは、お堂に籠もり夜通し祈願する「参籠(さんろう)」を行ったという。
とりわけ有名なエピソードが、紫式部がこの石山寺で『源氏物語』を起筆したという伝説だ。1004年、時の中宮から「新しい物語を読みたい」との要望を受け、物語を作るため7日間の参籠をしていた紫式部は、参籠の後に御簾を開け、月を眺めていたという。その日は中秋の名月。琵琶湖に映る月を眺めていると、京の都から須磨へと流された貴公子が月を見て都を恋しがる場面が浮かんだ。そして「今宵は十五夜なりけり」と書き出したのが、『源氏物語』の始まりといわれている。
この伝承は『石山寺縁起絵巻』をはじめ、さまざまな書物にも記されていて、本堂の一角には、紫式部が源氏物語を執筆したといわれる部屋が「源氏の間」として残されている。
江戸期には松尾芭蕉、明治期には島崎藤村も滞在
ほかにも石山寺の境内には、若き日の島崎藤村が2カ月間滞在した塔頭「密蔵院」(門前にあった建物を1969年に境内に移築)や松尾芭蕉の句碑がある。またお寺のちかくには芭蕉が仮住まいした「幻住庵」もある。
芭蕉はこの石崎を訪れて「石山の石にたばしるあられかな」「あけぼのはまだむらさきにほととぎす」という句を詠み、藤村は当時の滞在生活のことを随筆や童話に残している。
風光明媚な寺の自然美と観音様のもたらすパワーがそうさせたのか。石山寺は、各時代の文学者にインスピレーションを与え続けた。
悩み多き時代のよりどころとなれる寺に
昔も今も多くの人が訪れる石山寺は「花の寺」としても親しまれている。
2月下旬頃には、境内にある3つの梅園で、約40種類400本の梅の花が春の到来を告げ、それに続いて、さまざまな種類の約600本もの桜が伽藍山を彩る。その後も、樹齢300年を超えるキリシマツツジや、菖蒲、藤、アヤメ、牡丹、あじさい、さざんかなど、季節ごとの花々が訪れた人の心を和ませる。
花の中には、座主が丹精込めて育ててきたものも少なくないそうで、「第一梅園」には歴代座主が育てた古い梅が集まっている。晩秋から冬にかけ花を咲かせるさざんかは、鷲尾さんの祖父にあたる第51代座主が愛し、増やしたものだそうだ。
「境内の花は、遠方からお越しの方から地元の方まで、さまざまな方とのご縁を生んでくれています。不安の多い時代なので、これまで以上に人の心のよりどころとなれる寺でいられたら」と鷲尾さん。
車の音の届かない境内で自然美に浸り、心を解放する
山の一部を境内としているだけに、長い歴史を生き抜いてきた木々の美しさもみごとだ。「千年杉」と呼ばれる樹齢約400年のご神木や、夏場も濃い影をつくり出す杉林、そしてあお若葉(もみじ)や紅葉と硅灰石が織りなす鮮やかなコントラストも、ここでしか見られない眺めとして人気を集めている。
境内には、車の走る音は届かない。いっとき俗世から切り離されたような、ほっとした気持ちがもたらされたように感じる。実際、参詣者の中には半日ほどかけて境内を散策する人も少なくないそうだ。
長きにわたり“祈りの場”として多くの人を集めてきた石山寺の磁力は、訪れる人の心をゆったりと解放してくれる美しい自然にも宿っている。