歴史が好き、建築が好きでお城を見に行く人はたくさんいるが、石垣に注目する人はどれくらいいるだろう。比叡山延暦寺の門前町、滋賀県大津市の坂本では「石垣づくり」を専門にする職人集団「穴太(あのう)衆」の技が今も受け継がれている。一切の技術を口伝でのみ伝えてきた穴太衆の起源と活躍、そして現在を聞いた。
石垣づくりを専門に活動する職人集団「穴太衆」
琵琶湖の西岸、比叡山延暦寺の門前町である大津市坂本。「石積みの里」と呼ばれるこの町では、道を歩くと至るところで見事な石垣に迎えられる。自然にある石を加工せず、そのまま積み上げる「野面積み(のづらづみ)」を得意とする穴太衆は、戦国時代を中心に活躍した石積みの職人集団だ。高い技術で堅牢な石垣をつくる穴太衆は全国の大名に召し抱えられ、現存する城の石垣のうち7~8割が、穴太衆の手によるものだといわれている。
ルーツは古墳時代にやって来た渡来人
穴太衆のルーツは、古墳時代に朝鮮半島から日本に渡ってきた渡来人だといわれている。788年に最澄が比叡山延暦寺を開創し、僧侶たちが住む里坊などの石垣づくりを、この地に住む石組み職人たちが行った。職人たちが拠点としたのが穴太(あのう)という地区だったことから、彼らは穴太衆と呼ばれるようになった。
石造りといえばヨーロッパのイメージがあるが、実は西暦80年につくられたローマのコロッセオでは既に大量のコンクリートが使われている。日本は島国でセメントやコンクリートといった接着剤の技術が伝わらず、また地震大国なので、建物の下には揺れに耐えうる強い土台が必要だった。こうした日本の風土により石積みの技術は飛躍的に進歩し、独自の技となり磨かれていった。穴太衆の石積みでは、今も接着剤は一切使われていない。
信長も惚れ込んだ石積みの技術
穴太衆の名を一躍有名にしたのが、織田信長が琵琶湖の東岸に建てた安土城だ。1571年の比叡山焼き討ちの際、信長は二度と再興ができないよう焼け残った石垣の打ち壊しを命じる。ところが石垣はいくら崩そうとしても崩れず、その堅牢さに驚いた信長が、安土城の築城に穴太衆を動員したという。それ以来、穴太衆の名は全国で知られるようになり、のちに姫路城や竹田城、さらには大阪城や名古屋城、江戸城も穴太衆が手がけたといわれている。
穴太衆の技術は免許制で、全国各地でどれだけ腕を磨こうが必ずこの土地に戻って修行を積まなければその名を名乗れないという決まりがあった。ゆえに代替わりの際には必ずここ坂本に来て修行をし、穴太衆の名を受け継いだという。職人として、本物の技術を継承することに重きを置いてきたことがうかがえる。
現代で唯一、穴太衆の技を継ぐ粟田建設
穴太衆の技術を現代に受け継ぐのが、株式会社粟田建設の粟田純徳(すみのり)さんだ。かつて穴太衆が積んだ見事な石垣が残る滋賀県大津市坂本に拠点を置き、第15代目穴太衆頭として全国で活動を続けている。
「最盛期には全国に何千人もいたといわれる穴太衆ですが、今ではうち粟田建設だけになってしまいました。石垣づくりといっても石を積むだけではなく、山から石を切り出す人、それを運ぶ人、そして積む人という分業制です。戦国時代が終わって新しい城がつくられなくなると、石を切り出す人は墓石などの石を加工する仕事、石を運ぶ人には飛脚など運搬の仕事に職を変え、散り散りになってしまいました。石を積む人は仕事がなくなりましたが、僕らはありがたいことに比叡山延暦寺が近くにあり、また滋賀県には神社仏閣が多い。おかげで石垣を増設したり、修復や土木工事などを請け負いながら、仕事を続けられています」。
石垣は一度積むと300年、400年もつのが当たり前。現代では商売として石積みを続けていくのは難しいが、それでもこの技術をどうにかして先につないでいきたいという。
石垣の修復をして思うこと
新しく城が建てられることがなくなった現代では、仕事のほとんどが地震や劣化で崩れた石垣の修復だという。
2016年の熊本地震で崩落した熊本城の石垣も元々は穴太衆が築いたものだが、地震によって崩れたのは、ほとんどが明治時代に穴太衆の技術を用いずに修復された部分だった。その一方で、400年前につくられた部分は崩れずに残っている。文化財の修復は「元に戻すこと」が鉄則とされるが、崩落前の明治時代に修復された状態に戻すのが本当に良いのだろうか。また、基礎を全てコンクリートで打ち直していたことも崩落の原因では、と粟田さんはいう。大きい地震が増えている昨今、近代技術だけが本当に最適な選択なのか、立ち止まって考える時が来ているのかもしれない。
自然の石でつくる、コンクリートより強い石垣
穴太衆は、自然にある石を加工せず、そのまま積み上げる「野面積み(のづらづみ)」を得意とする。写真の竹田城(兵庫県)の石垣に見られる技法がそれである。石垣の積み方には他に、石を加工して噛み合わせながら積み上げる技法で、姫路城などでみられる「打ち込みハギ」や、石を完全に四角く切って隙間なく積み上げる技法で二条城で見ることができる「切り込みハギ」があるが、地震や豪雨への備えを考えた時、もっとも耐久性に優れているのは野面積みだそうだ。滋賀県内では安土城に行けば野面積みの石垣を実際にみることが出来る。
穴太衆は依頼を受けるとまずその地に出向き、行った先々でその土地にある石を使って石垣を積んだ。戦国時代の城が山の上にあるのは、石が採れる場所を選んで城を建てていたからだ。石積みは、石を選ぶことから始まると粟田さんはいう。まず頭の中で図面を描いて、石をじっと眺め「この石はここに使おう、あの石はここにはまるな」と考えて石を持ち帰る。石選びの段階で、仕事の7、8割が終わるといっても過言ではないそうだ。
強い石垣をつくる秘訣は、表には見えない「栗石(ぐりいし)」にあるという。石垣の中に栗石と呼ばれる細かい石を丁寧に詰めておくことで、地震が来た時のクッション材になり、また水はけも良くなって崩れにくい石垣ができる。石の積み方にも工夫があり、石を横長方向に積むことで全体の重みを広い底辺で支え、表面から3分の1くらい奥に重力がかかるように設計することで崩れにくい石垣を組み上げている。 穴太衆が積んだ石垣とコンクリートブロックの耐荷力実験では、コンクリートは220トンで亀裂が入ったのに対し、石垣は250トンの重さにも耐え続けたというから驚きだ。
「石の声を聴け」
石垣を積んでいて、石を置くとその場所にぴたっと収まる瞬間があるそうだ。「そんな時は、石の声が聴けた気がして嬉しい」と粟田さんはいう。「石の声を聴け。自分たちの采配で積むのではなく、石の行きたいところに行かせてやれ」とは、粟田さんが先代からずっと言われてきた言葉だ。石も世の中と同じ。どんな形の石にも必ず役割があって、無駄なものはひとつもない。見た目や性格など、一つひとつに個性があり、その組み合わせで成り立っていると言い聞かせられてきた。
「石垣は、積む人によって全く違う仕上がりになります。性格が出るんですね。例えばうちの祖父は繊細で、石の形に沿って緻密に組んでいくスタイル。父はどちらかというと荒々しく、大きな石をドン、ドン、と積んで間を小さい石で埋めていく積み方をしていました。僕は石積みを祖父に習ったので、細かく組んでいくやり方を受け継いでいます」。修復現場などで石垣を見ていると、どんな人が積んだのか何となくわかってくるという。「ここはちょっと手を抜いてるな」「もう少し丁寧にしたら崩れなかったのにな」と思うこともあるが、戦国時代の城は、いかに早く完成させるかが何よりも重要。本来なら組み上げるのに半年、下準備を含めたら1年以上かかる石垣を、当時は1、2ヶ月で完成させていた。戦国の世で、穴太衆が城づくりに与えた影響は計り知れない。
400年を口伝でつなぐ石積みの技術
穴太衆の石積みは、すべてが口伝。文書などはいっさい残されていない。お城や石垣の設計図は、今でいう軍事機密。万が一敵に伝わると、城内に施した仕掛けから有効な攻め方まで全てが露呈してしまう。機密情報が敵方に渡らないよう、技術を伝える文書はもちろん、家系図すら残さなかったという。1000年以上続いてきたとされる粟田家がいまだ15代を数えるのみなのも、その辺りに理由がある。
戦国時代の当時、穴太衆の指揮で石積みを手伝ったのは、現地に暮らす農家の人々だった。当時の主な運搬手段は牛や馬。その牛や馬を持っている農家の協力は不可欠だったため、農業が忙しい春と秋には城はつくられなかったという。同じものは二つとない自然の石を組み合わせる上、限られた職人にだけ極秘で伝えられてきた穴太衆の技術ゆえに、文字にして残すのが難しかったということもあるのかもしれない。
息子や孫の代で崩れるような石垣はつくらない
「僕らの仕事はすごく特殊で、400年、500年もつ物をつくって、それで崩れたら『下手くそだ』と言われるんです。何年もたせたら上手いと言われるんだろうと気が遠くなることもありますが、だからこそ強さにはこだわりたいという思いがあります。今は石垣も見た目がきれいな方がいい、自分が生きている間もてば十分、と思う人が多いかもしれませんが、粟田の名がその石垣にずっと残って、何百年か先に崩れた時、『粟田の15代目は下手くそだった』とは言われたくない。うちは穴太衆で最後の1軒。地震や災害に強いと信頼されて続いてきたこの技で、僕の息子や孫の時代になって崩れるような石垣はつくりたくないと思っています」と粟田さん。
難しい仕事で、それだけの覚悟も必要だが、この技術は絶対に継承していきたいという。
粟田さんが思う素晴らしい石垣とは?
プロの目から見た素晴らしい石垣についても聞いてみた。「個人的に好きなのは、兵庫県の竹田城。この石垣も、穴太衆によって築かれたといわれています。大小さまざまな自然の石をバランス良く組み合わせた、唯一無二の石垣を見ることができますよ」。廃城から400年が経ち建物は残っていないが、石垣はほぼ当時のまま残されており、粟田家では3代にわたり修復を任せられているそうだ。「祖父や父が直したところを見ると勉強になりますし、特に思い入れがある石垣です」と粟田さんは微笑む。
石垣を見れば、城主の考えや当時の時代背景も知ることができるという。戦国時代、城の構造は人々の生死に関わることだった。道順を見れば「ここで待ち伏せをしたんだな」と気づくことができるし、大胆な反りのある石垣なら安土桃山時代のものかな、と予想することもできる。安土城の石段には墓石や地蔵があからさまに使われており、築城ラッシュにより石が不足していた時代背景や、城主信長の気性の荒さが垣間見られるのも興味深い。
美しい日本の風景を残すために
海外に呼ばれて石垣を積むこともあるという粟田さん。アメリカで仕事をした際、現地に住んでいる日本人の人が「この石垣を見ると日本を思い出す」と涙するのを見た時は、自分も心にくるものがあったという。
「僕は息子がいるが、このままいくと、息子に胸を張って「後を継げ」と言うのは難しい。苦労するのは目に見えているので。そのためには、自分が働けるうちにどうにかして道をつくってやらないといけない」と語る粟田さん。海外の仕事も積極的に受け、その石垣が注目されることで、日本でも石積みの魅力が見直される時が来たらと話す。
粟田建設が積んだ石垣は、東京都内では馬事公苑のオリンピック記念碑として使われているものを見ることができる。やや小ぶりだが、江戸城の石垣を再利用して全て手作業でつくられたという。石に触れ、石の声に耳を傾けながら、穴太衆がつないできた技に思いを馳せてみてはいかがだろう。