秋田県大館市と青森県平川市の県境をまたぐ矢立峠は、かつて天然秋田杉の一大産地であった。人工的に植栽された「秋田杉」と異なり、天然秋田杉は枝打ちや間伐などをせず、自然のままに育つ。それゆえ成長が遅くなり、年輪の幅が狭くなる。結果、強度に優れ、工芸品や建材としてこれ以上ない素材になるのだ。そんな矢立峠を通る国道7号から、日景温泉を目指す隘路(あいろ)に入って行くと、そこからはひたすらに森が続く。狭く暗くなっていく道にいささか心細くなった頃、落ち着いた和風宿が目の前に現れる。
「日景温泉」、秋田の地で再び生まれ変わる
1893年(明治26年)に創業した「日景温泉(ひかげおんせん)」は、三日入れば悪いところも良くなる「三日一廻りの霊泉」とよばれ古くから地元の人に親しまれる温泉だった。立派な設備ではないが、お湯がいいと足繁く通う大館市民も多かった。しかし東日本大震災の影響や建物の老朽化などで2014年に営業を終了。名湯の廃業を惜しむ声は多く、2017年10月、ついにリニューアルオープンを果たす。かつての湯治場の雰囲気を残しつつも、和洋室のジュニアスイート、温泉付きの特別室なども備え同じタイプの部屋は無い全28室、森の静寂を楽しみつつ、贅沢な時間を過ごせる宿へと生まれ変わった。もちろん宿泊だけでなく日帰りでも食と温泉を楽しむことができる。
温泉と郷土料理に心も体も癒される
吹き抜けのロビーに入ると、すでにそこから硫黄の香りが漂っている。日景温泉の泉質は含硫黄・二酸化炭素-ナトリウム-塩化物温泉。古くから皮膚系の病にもよく効くとされる湯は、濃厚な塩分を含み湯力が強い。秋田杉を使った空間は、どこか清冽な空気が感じられる。過度な装飾のない木の温もりに満ちたロビーの椅子に座ると、そこもまた矢立の森のように感じられる。さて、チェックインを済ませたら、4つある貸切温泉の予約をするのが日景温泉のならわし。周囲の美しい木々を見晴らしながら入る「あんべいい湯っこ」「うるける湯っこ」、そして「滝見の湯っこ」の3つは、いずれも貸切の露天風呂だ。それぞれの浴槽には炭酸泉を含んだ硫黄泉が源泉かけ流しであふれている。ちょっと熱めだが湯力が強く、体の中の骨までもその効能が届きそうなほどだ。風呂から上がった時の全身がほとばしるような開放感もまた、名湯ならではの体感であろう。内風呂の貸切風呂「めんけ湯っこ」は、濃いにごり湯の硫黄泉。美肌の薬湯と称されトロッとした湯当たりが気持ちいい。やや温めの温度でゆっくりと時間をかけて浸かるには最適の温泉だ。風呂から上がったあとは、ロビーにて宿泊者専用のアイスやドリンクで体の熱を冷ますのも、また格別な気持ちよさである。
夕食も華美なものではないが質実剛健と言えばいいのか、無農薬有機栽培の地元野菜を使った郷土料理に舌も心も癒される。比内地鶏や塩焼きの川魚、秋田牛、ジュンサイ、そして汁ものでは秋田名物のきりたんぽ鍋。秋田は山の幸が豊富な食材王国であったことを、あらためて思い知らされる。いい湯と旬の味が楽しめる食事に満たされつつ、静かな森に見守られながら眠りにつく頃、闇が溶けた空に満天の星が輝いていた。都会では絶対に味わえない至福が、秋田杉に囲まれた日景温泉にはある。