縄文時代に人の暮した洞窟。
大谷寺(おおやじ)を訪れてまず誰もが驚くのが、自然の創り出した巨大な奇岩の山だろう。そのふもとには、岩の下に食い込むように大谷寺の観音堂が建てられている。思わず「なぜここに建物が?」と感じる人は多いかもしれない。しかしこの奇岩こそ、この土地の歴史に大きく関係している。
大谷寺が開山するよりも遥かに昔、縄文時代に人が住んでいたとされる洞窟がこの岩山に残されており「大谷寺岩陰遺跡」として保存されている。この洞窟は縄文時代早期の横穴式住居だと考えられ、おおよそ1万1千年前のものとされる人骨が出土しているのだ。(※宝物館には一部、実物が展示されている)
そして、この大谷寺岩陰遺跡の岩壁に、仏を象った石仏「磨崖仏(まがいぶつ)」が彫りこまれている。つまり縄文時代の遺跡であり、また、仏教遺跡としての観点から、国指定特別史跡と重要文化財に指定されているとても珍しい寺院なのだ。
岩の壁の「磨崖仏」の存在。
大谷寺は平安時代810年に弘法大師・空海が、本尊である「千手観音菩薩立像」を彫り開山したと言い伝えられている。このほかに「釈迦三尊像」、「薬師三尊像」、「阿弥陀三尊像」と、全部で4組10体の石仏が今も残されているのだ。 ご住職に洞窟の中を案内していただくことができた。
「石仏は、最初は金箔仕上げだったそうです。バーミャンの石仏にも通じる、シルクロード直系の造り方のようです。大変素晴らしいお姿だったのでしょうが残念ながら長い年月で金箔は剥がれてしまいました。度重なる火災もあり、お姿は痛んでしまいました。」
「しかし、昔の人はよく彫りますね…。」と中田。
「そうですね。栃木県の学者が磨崖仏の研究を続けていて、最近では、奈良時代の後半に造られたのではないかと言われています。唐招提寺を造った鑑真の孫弟子が中心になって造ったものではないかという説です。奈良の朝廷の領土が当時はこの栃木までだったんですね。そのため、北の要所として国家プロジェクトとして作られた。本当のことはわかりませんが、そういった説もあります」
ご住職は磨崖仏を前に、「仏様には宗派はないんです、拝むほうに宗派がある」そう話してくださった。 この土地に遥か昔より人が暮らし、幾多の時代を超えて祈りのよりどころとして磨崖仏と寺院が残されてきた。大谷寺はその歴史に想いを馳せることができる場所なのかもしれない。