全国有数の漁港に日本一の魚屋
静岡県焼津市にはしらすや駿河湾だけでしか漁獲できない桜えびが水揚げされる大井川漁港と、遠洋漁業の基地として主にカツオ・マグロが水揚げされる焼津港、沿岸のアジ・サバなどが水揚げされる小川港を総称した焼津漁港があり、全国有数の水揚げ量を誇っている。焼津魚港から車で2分ほどの距離に店を構える魚屋「サスエ前田魚店」には、開店からひっきりなしに地元客が押し寄せる。港町だけあって品揃えは豊富で価格も安い。だが、創業60年以上のこの店が絶大な人気を誇るのは、品揃えや価格が理由ではない。5代目店主の前田尚毅さんは、一流料理人から絶大な信頼を得ている「日本一の魚屋」だ。
取引先には、全国の食通を魅了する天ぷらの名店「成生(なるせ)」(静岡市)、ミシュラン三ツ星に輝く「鮨よしたけ」のほか、「NARISAWA」、「傳(でん)」、「木山」、香港「すし志魂(しこん)」など国内外の名店が並ぶ
「物心つく前から母親に背負われて、お腹が空いたら魚の切り身を与えられていました。もちろん醤油なんてつけずにそのまんま。そのおかげで、魚の本当の味をおぼえたのかもしれません。いまだに一番美味しかったのは、幼稚園のときに食べたタコの刺身です。いまでも僕は魚しか食べません。自分が美味しいと思えるものだけを売りたいですからね」(前田さん)
人生をかけて魚と向き合う
広いバックヤードでは前田さんが一日中魚をさばき、国内外に魚を発送し続けている。「仕入れてから売るまでが魚屋の仕事ではありません。天気図を見ながらどこでどんな魚がとれるかを予想し、漁師がどんなふうにその魚をとったかを把握し、最適なさばき方や保存方法を考えます。たとえばリールの巻き方ひとつで魚にかかるストレスが変わってくる。いかにストレスを与えずに店やお客さんの食卓に届けるか。それを考えるのが自分の仕事だと思っています」(前田さん)店に届いてからのことも計算する。
「その魚をどのタイミングでどういうふうに調理して出すか。その店の冷蔵庫の状態や料理人の腕前まで見極めるようにします。ただ魚を売るだけでなく、もうひとつ“向こう側”を見ておいしい魚を提供したいのです」(前田さん)
前田さんが“日本一”と呼ばれるのは、超絶的な技術によるもの。まだピチピチと跳ねそうな大きな平目をおもむろにまな板の上にのせるとあっという間に活き締めして血抜きをし、きれいに身をおろしていく。さらにまな板の上においた切り身に、ほんの少しだけ塩をふると、切り身がピクピクと動き出し、まるで汗をかくように水分を排出し始めたのだ。「この処理をすることで臭みが抜け、新鮮なままの味を楽しむことができます。ただ美味しいというだけでなく、余韻が長い。どうさばくか、どのくらい塩をふり、脱水と保水をどのくらいのあんばいにするかは、自分の五感で判断するしかない。これが自分の武器。1日休むと感覚が鈍って取り戻すのに3日かかります。だから休むわけにいかない。自然と向き合う仕事ですから、毎日毎回100点というわけにはいきませんが、常にそうありたいと思っています」(前田さん)「人生かけて魚と向き合っている」。そんな言葉が大げさに感じない。こんな魚屋が近所にある焼津の人たちがとてもうらやましく思えた。