酒造りのスペシャリストが吟醸酒ブームをつくる
かつて日本酒の産業構造では「杜氏」による出稼ぎ制度というものが定着。杜氏は地元で農業を行いながら、冬になると “酒造りのスペシャリスト”として蔵に参加して酒造りの指揮を執っていた。今では蔵のオーナーや社長が自ら杜氏として酒造りをしたり、杜氏が社員として蔵に直接所属するケースも多く、そんな日本酒造りにおいて「伝説の能登杜氏」「酒造りの神様」などと称される達人がいる。
その人物は「農口尚彦研究所」の農口尚彦さん。1932年に石川・能登半島の杜氏一家に生まれ、16歳で酒づくりの道へ進むと静岡や三重の蔵元で修行。石川に戻った後は「菊姫」や「鹿野酒造」「農口酒造」で酒造りを行い「全国新酒鑑評会」で金賞を連続12回、通算でも27回受賞するなど一目を置かれる存在。当時、鑑評会のために造られていた吟醸酒を市場に流通させて1970年代の吟醸酒ブームのきっかけをつくったり、失われつつあった山廃仕込みが復活するきっかけも農口さんだったといわれている。「現代の名工」や「黄綬褒章」を受賞した、誰もが知る日本酒のトップランナー。
酒文化を広めたい
2015年に引退されていた農口さんが、2017年に『農口尚彦研究所』の設立と共に、杜氏として就任。「酒造りの技術を極めたいという夢や情熱を持った若者と共に酒造りを行いたい」という農口さんの熱い想いを受け止めて誕生したこの研究所は、その名の通り、農口さんの技術・精神・生き様を次世代に繋ぐことをミッションとした、全く新しいアプローチの酒蔵。水質を徹底的にチェックして選定された土地に施設を建設、白山連峰の伏流水を仕込み水に使い、麹室やタンクの温度管理も徹底しながら、農口さんが40年あまりにわたり書き溜めてきた数値データや最新機器を駆使して、その情熱を継承しようとする8名の若い蔵人とともに酒造りをしている。農口尚彦研究所の酒造りが目指すのは、きれいな余韻を残しながらスーっと余韻が伸びる”喉越しのキレ“、お客さんの「美味い」と喜ぶ顔を励みに日々研鑽を重ねている。
『農口尚彦研究所』では、こだわりの酒造りをするだけなく、酒文化を広めることにも取り組んでいる。杜氏農口尚彦の日本酒造りの歴史、こだわりを体感できるギャラリーを蔵に併設しているほか、金沢の大樋焼十一代・大樋長左衛門氏によるアートディレクションで茶の湯文化を表現したテイスティングルーム「杜庵」では、四季折々の田圃・里山情景を愛でながら伝統ある季節の飲み方や新しい日本酒の楽しみ方体験を提供している。また、地元の食やクリエイターの発信拠点として、世界中の美食家達の「旅の目的地」となることを目標に、国内外の著名シェフによる「Sake」と「Gastronomy」の融合をコンセプトとしたペアリングイベント「小松Saketronomy(サケトロノミー)」を開催するなど、食や日本酒の文化を独自の方法で発信し続ける。