注連寺とは
古来より、羽黒山、湯殿山、月山の出羽三山は東北有数の霊場と考えられてきた。神仏習合の時代には、数々の寺院が創建し、多くの修験者が集う修験道を成してきた。
この日、訪問したのは山形県鶴岡市にある「湯殿山 注連寺(ちゅうれんじ)」。注連寺は833年・天長10年に弘法大師が開山したとされ、ご本尊には大日如来をお祀りする。その山号にも残るように湯殿山派に属する寺院だ。ご住職の佐藤弘明さんにお会いすると、注連寺の持つ“役割”を教えていただくことができた。
「出羽三山に修験者が入るときに身につける装束の一つに、首から下げる縄があります。その縄を“注連縄”と呼びます。これは皆さんもご存じの“しめ縄”です。出羽三山は精霊たちのいる場所ですから自分の身を守る結界として身につけるのです。この注連寺はその名前のとおり、湯殿山を守る結界・しめ縄として位置しているのです」。注連寺は参道のひとつ「七五三掛口」に位置し湯殿山の結界を意味しているのだ。
明治時代になると神仏別離により出羽三山の多くの寺院が廃寺された。注連寺は廃寺を免れたが、衰退の憂き目を見た時期があったという。昭和に入り、小説『月山』の舞台として描かれたこともあり全国的に知られるようになった。
即身仏 恵眼院鉄門海上人
江戸時代、注連寺の普及に寄与し多くの伝説を残す僧侶がいた。修行の末に即身仏となった恵眼院鉄門海上人だ。その御姿は現在、本堂の厨子に安置されているため拝観することができる。
即身仏とは、僧侶が修行を行い、修行最後に生きたまま土に入り入定した、ミイラ化した姿。ミイラ仏とも表現される。ここ山形県には8体が存在しており、注連寺にはその中の一体、恵眼院鉄門海上人が安置されている。
「恵眼院鉄門海上人は3000日に及ぶ苦行をされて即身仏になりました。修行を始めるとき最初に決めた事が、土の中に入る日だったと言われています。そのくらいの覚悟をもって修行に入ったのです」。苦行は1000日ごとに区切られたが、恵眼院鉄門海上人はしばしの休暇の際にも全国を行脚して布教に勤めたという。
注連寺の美しい天井絵画
もう一つ、注連寺の大きな特徴になっているのが天井絵画だ。
本堂には、龍が睨みをきかせた天井絵画、故村井石斎画伯による伝統絵画「飛天の図」。そして、現代作家による4つの天井絵画がある。合掌した手の絵画は木下晋氏作「天空の扉」、水を一つの象徴としてひとつの結界を作り出した満窪篤敬氏作「水の精」、久保俊寛氏作「聖俗百華面相図」、十時孝好氏作「白馬交歓の図」。
「千年残る天井絵画を描いてほしい」という依頼により、現代の作家が腕を振るったもの。こうして芸術文化を取り入れた本堂にはどこか人を受け入れる空間でもあると感じさせられた。
古来より多くの人が訪れ、修行の場であった注連寺。今なお、山々と人に寄り添いながら時を刻む場所であった。