九州の重要な歴史を語る存在
飫肥城は、東西南は酒谷川が天然の堀を形成し、背後は山林に囲まれている自然の要塞で、南北朝時代に築城されたといわれている。室町末期頃より、九州制覇を狙う薩摩の島津氏と、日向の大名伊東氏の間で、この飫肥城の争奪戦を幾度と繰り広げられた。最終的には、伊東氏一族が豊後国の大友氏を頼って亡命し、およそ90年にわたる争いは幕を閉じるのだが、天正15年豊臣秀吉による九州征伐で軍功を挙げた伊東祐兵(すけたか)が5万1千石を与えられて飫肥城主に返り咲き、以後飫肥城は明治まで、伊東氏の居城とされた。なお、現在の飫肥城跡は、1684年の大地震で大損害を受けた後、修築工事により復元したものだ。
飫肥城下町の情緒ある風景
飫肥城下町は碁盤目型に屋敷が配置されており、それに沿った飫肥の水路はかつては防火用水家庭用雑水などに使われていたが、現在は鯉が遊泳しており、情緒ある風景だ。町全体を散策するなら、それほど広くないので、駅前や飫肥城駐車場で貸し出しをしているレンタルサイクルがお薦めのようだ。
武将の娯楽「四半的」を体験する
また、飫肥城の近くには「四半的(しはんまと)」の体験射場がある。
四半的とは、的までの距離が四間半(約8.2m)で、弓矢の長さが四尺半(1.37m)、的の大きさが四寸半(13.6cm)と、全て「四半」であることから名前がついた。この「四半的」は歴史が古く、戦国時代には、南九州の武将たちの間で遊びとして行われていた。
飫肥地方のみ娯楽競技として現在に伝わり、スポーツ・レクレーション競技として、ルールも整えられ、広く市内外で大会等も催されている。 一般的な弓道よりも力を必要とせず、小ぶりな作りになっており、引きやすいそうなので、飫肥を訪れたらぜひ、気軽に挑戦してみよう。