宮崎県の文化や風土が生んだ南国の味を世界に広める「⻑友味噌醤油醸造元」

宮崎県の文化や風土が生んだ南国の味を世界に広める「⻑友味噌醤油醸造元」

宮崎県宮崎市に1877年に創業した「⻑友味噌醤油醸造元(ながともみそしょうゆじょうぞうもと)」は、現在、国内はもとよりアジア各国でも多くのファンを獲得してる小さな醸造元だ。ここで日々仕込まれているのは、南国の食文化に合わせた甘い味噌と醤油。そんな南国ならではの味を作り、守り続ける南国の醸造蔵を訪ねた。


九州南東部。宮崎県宮崎市にある「⻑友味噌醤油醸造元」へ



日照時間、快晴日数ともに全国トップクラスを誇る明るくて温暖な気候から、奈良時代に編纂された古事記などの歴史的文献に「ここは朝日の直射す国、夕日の日照る国なり」「この国は直に日の出づる方に向きけり」などと記され、古くは「日向国(ひゅうがのくに)」と呼ばれていた宮崎県。

その中央に位置する宮崎市の沿岸·青島地区は、亜熱帯植物がきらめく「青島海岸」や「宮交ボタニカルガーデン」、地元では“鬼の洗濯板”と呼ばれる、波状岩に囲まれたパワースポット「青島」といった観光名所が点在し、特に南国風情が色濃く漂うエリアだ。このようにリゾート地としてのイメージが強い青島地区だが、古くから漁業が盛んに行われる港町としての顔も併せ持つ。そんな海辺の集落の一角に、およそ150年にわたり地域に密着して醸造を行う「長友味噌醤油醸造元」がある。


港町で育まれた⻑友味噌醤油醸造元の味



太平洋に面した港町·青島。潮の香り漂う集落の一角にある、1877年創業の「⻑友味噌醤油醸造元」では、ほぼ全ての工程を熟練職人たちが手作業で行い、自家製の麹を用いた昔ながらの製法で麦味噌、甘口醤油を熟成させ作っている。丁寧な仕事に地元の人の嗜好を加えた味噌と醤油は、甘く濃く香り高い。 これこそ宮崎の食文化を引き立てる、地域に根ざした味わいだ。


異色の経歴を持つ4代目・塩見裕一郎さん、陽子さん



醸造蔵の前でにこやかに迎えてくれたのは、塩見裕一郎さん・陽子さん夫妻。ふたりは、およそ15年前に4代目として⻑友味噌醤油醸造元を継ぐまで、醸造業とはまったく異なる仕事に就いていた。

都内の大学を卒業後、実家の醸造蔵を継がずにスイスの金融関係の企業へ就職した陽子さん。そこで出会った裕一郎さんと結婚し、シンガポールに生活の拠点を移した。 もともと跡を継ぐ気はなく、海外での生活を望んでいた陽子さんだったが、日本を離れたことがきっかけで、改めて日本固有の食文化である味噌・醤油の素晴らしさを感じていた。そんな最中、陽子さんの父である3代目・長友昭彦さんが病に倒れたという知らせが入る。 不意に訪れた家業存続の危機―。

創業から現在まで約150年間、変わらず地元に愛されてきた味を守り継ぐべきか、あるいは今の生活を続けるか。

生活すら一変してしまう究極の選択に思い悩む日々を送っていた陽子さんだったが「世界的に見ても100年以上続いている会社は少ない。やめてしまって後悔する前にまずはチャレンジしてみてはどうか?」という裕一郎さんのアドバイスに背中を押され、すぐさま帰郷。実家に戻り、いよいよ本格的に味噌・醤油職人としての道を歩み始める。


南九州・宮崎市青島の風土・食文化が育む「甘さ」



⻑友味噌醤油醸造元のある南九州の醤油・味噌は、全国的に普及しているものと比較すると甘みが強いのをご存知だろうか。その理由には諸説あるが、主に土地の風土や食文化が関わっているといわれる。漁師が船上で釣れたばかりの魚を捌いて刺身にして食べる際、脂ののった新鮮な身に、甘くとろみのある醤油をしっかりとまとわせるのを好んだからだとか、九州地方でよく作られている焼酎が、糖分を含まない蒸留酒であるため甘みのある肴に非常に合うからだとか。

また歴史的な経緯も考えられるのだそう。日本が鎖国をしていた江戸時代、唯一の貿易港として開かれていたのが長崎の出島だったため、そこから砂糖が国内に入ってきて、やがて長崎街道を中心とした通称・シュガーロードを辿って九州全域に広がっていった。 このような背景から、高級品であった砂糖が比較的入手しやすい環境であったため、“甘さこそ客人へのもてなし”という食文化が根付いていった。これが和食のベースとなる醤油・味噌にも少なからず影響を与えたと考えるのは自然。甘い料理は、南国の暑さをしのぐ“滋養”としての意味もあったとも言われている。


⻑友味噌醤油醸造元の味噌・醤油の味を世界へ



⻑友味噌醤油醸造元では全ての工程において職人の手仕事を大切にしているため、もちろん体力的な作業の大変さは想像に難くない。しかし、それ以上に苦労したのが、国内での販路の確保だったと塩見さん夫妻は話す。その理由は、先に述べた南九州特有の味噌・醤油の甘さにあった。「味噌や醤油への嗜好は、土地に根付いた味、各家庭の慣れ親しんだ味に強く影響されます。私たちが作る甘い醤油や麦味噌は九州以外ではあまり馴染みがなく、営業活動が難航しました。そこで海外に目を向けることにしたんです」。

そう、長友味噌醤油醸造元が成功へ転じたきっかけは、海外での生活や経験、知識を生かした戦略。味噌や醤油がニッチと思われていたアジア圏への輸出がその鍵となったのだ。

「海外での生活を通して、アジア圏の地の利、国民性、食文化等を肌身で感じていましたので、外国で求められる要素はある程度把握できていました」と陽子さん。10年ほど前からシンガポールや香港など、アジア圏への営業を開始すると、瞬く間に高評価を得ていく。 その人気ぶりは、店舗に商品が並んで3日で売り切れてしまうほどだった。

「シンガポールでは薬膳料理で大麦を食べる文化があるので、麦味噌で勝負すべきだと考えました。結果、見事に的中。シンガポールの経済は移住中国人の子孫である華僑が回していると言っても過言ではないので、彼らが好む“ゴールデンカラー”の味噌は非常によく売れるんです」と、陽子さん。


実直な商品づくりはもちろん、的確なマーケティング戦略、⻑友味噌醤油醸造元の強みである“甘さ”と温暖な地域の食文化との親和性も成功の要因だろう。


現地で体感する日本食の需要



海外での実演販売の際は必ず店頭に立つというふたり。その理由は、接客することで自分たちが今何を求められているのかを肌で感じ、勉強するためなのだそう。 外国にいると、日本人である自分が自分たちの住む国について知らないことが多いという事実に気付く場面がしばしばあり、そんな時に海外から見た日本の価値を勉強しなければと強く感じたという。

「特に味噌・醤油づくりを生業にして以来、日本の食文化に敬意を持ち、価値を守って欲しいと心から応援してくれる多くの外国人に出会います。 その声は私たちを励ますと同時に、さらに味噌・醤油づくりへの情熱を高めてくれます」と微笑む。


青島の台所で愛される味を世界へ。⻑友味噌醤油醸造元の挑戦



船での運搬が主流だった時代、長友味噌醤油醸造元でつくられる味噌や醤油は、醸造所傍を流れる突浪川に設置された船着場から直接出荷されていたという。突浪川はほどなく大海原につながり、その河口付近の港では多くの魚が水揚げされてきた。

そのため、この地域の台所にならぶ甘い味噌や醤油は、昔から魚介をはじめとする青島の豊かな食材のおいしさを引き立たせ、現在に至っても食卓を賑やかに彩り続けている。こんなにも良い食材に恵まれた地域なのだから、時代の流れと共にインフラは整備され次第に運搬の手段は変わったものの、青島に暮らす人たちの食文化は約150年前からあまり変わっていないのではないだろうか。

これから先も変わらず、地元のお客様に愛され続ける味をつくっていくのが目標」と塩見さん夫妻。「さらに青島の伝統、日本の食文化の魅力を、世界に向けて発信できればうれしいです」と朗らかに、そして力強く話す。

海外での様々な経験を経て、改めて感じた伝統の味の素晴らしさ。それを世界に広めるため、海を超え、時代を超えて長友味噌醤油醸造元のストーリーは編まれていく。


ACCESS

⻑友味噌醤油醸造元
宮崎県宮崎市青島5丁目8−1
TEL 0985-65-1226