春の七草がゆなどにも使われ、古くから日本の食に欠かせない「せり」。宮城県名取市は、「仙台せり」の名産地だ。その名産地で、今では仙台・宮城名物となった「せり鍋」を広めた立役者が、「三浦農園」代表の三浦隆弘さん。三浦さんの育てるせりは、飲食店から引く手あまたで、入手困難となっている。三浦さんが仕掛けた「せり鍋」が、仙台を代表するグルメに根付いた理由は何なのだろうか。
400年続く、名取市の土壌で育つ「仙台せり」
400年ほど前から名取市でせりの生産が始められ、雑煮や七草がゆとして仙台の人たちが食していた。この地域でせりが育てられてきたのは、その土壌が栽培に適していたから。三浦さんによると、レンコンや慈姑(くわい)などを育てるような、“少し土を掘ると水が出てくる”湿地帯の土壌が適しているのだという。三浦さんはそんな恵まれた土壌を生かしながら、自然に寄り添う農業を実践している。
“土地の翻訳者”として、自然と人をつなぐ

せり農家として、三浦さんが大切にしていることがある。それが、食べる人の皿の上にきちんといい状態で届けるようにすること。
「ただ売って終わりではなく、人様の口に入っていくことを自分で想像できるかどうか。自分が一番厳しいお客様にならなきゃいけないというのは常に考えています。土や生態系、水などの“翻訳者”になることが農家の役割。どんな生き物がいて、どんな植物がいるかを言語化するようにしています」と、穏やかに語る三浦さん。
土地に根差したものの価値を伝えていくことこそが、農家をやっていく意味や価値となり、過去と未来を繋ぐ存在になると考えている。
ネイチャーポジティブな栽培を目指して
三浦さんが心がけているのが、ネイチャーポジティブな栽培をすること。これは、人間の営みが自然環境に与える悪影響を減らし、生態系の回復や多様性を促す考え方だ。
農薬や化学肥料は使用せず、有機物を取り入れてイトミミズやゲンゴロウなど土の中の生き物が喜ぶ環境をつくる。そうして生物が増えるほど土が豊かになり、結果としておいしい作物につながるという。使用する有機肥料は、ハタハタを発酵させたものや大豆油粕や鶏糞など。鶏糞は即効性があるものの、リン酸が多くなりがちなので、魚粕などのアミノ酸系の肥料を増やしてバランスを取っている。
丁寧な手作業を重ねる、三浦農園のせり

せりの収穫時期は9月から5月頃まで。新芽が緑色に色づき、50センチ程度に育つと収穫の合図。防水のつなぎを着て田んぼに入り、手作業で一本ずつせりを引き抜いたら、泥をすすいで出荷作業へ。 収穫したせりは、葉が黄色かったり傷んでいたりするものを選別する。実際に出荷されるのは全体の4割ほど。残りはすべて選別段階で省かれる。 「食べる人の顔を思い浮かべながら、“これなら自分も食べたい”と思えるものだけを出すようにしています」。
地元食材を主役に。「せり鍋」誕生の原点
せりを使った鍋といえば、秋田の「きりたんぽ鍋」が有名だ。ただ、あくまでも主役はきりたんぽで、せりが全面的に出てくることはない。しかし、仙台の「せり鍋」の主役は「仙台せり」だ。
この「せり鍋」を三浦さんが考案したのは、およそ20年前。仙台には牛タン、笹かま、萩の月、ずんだなどの名物があるものの、その原料が宮城県産でないものが多いため、地元の食材を使った名物を作りたいという思いがあったのだそうだ。
料理人との協働で形になったユニークな宮城名物
当時、茎中心に食べられていたせりは、葉や根はほとんど使われずに捨てられることが多かったという。
「でも、すべての部分がおいしく食べられる。だったら丸ごと味わえる料理があってもいいと思ったんです」。
三浦さんは、仙台駅近くの割烹料理店「いな穂」のご主人に相談し、2003〜2004年頃に「せり鍋」を開発。仙台の飲食店を中心に徐々に広がり、次第に“冬の味覚”として定着した。
ちょうどSNSが流行し始めた時期でもあり、せりを山盛りにしてみたり、あえて根を上にのせたりして関心を引くための工夫は欠かさなかったという。「味は食べてもらわないと分からない。でも、見た目で興味を持ってもらえればチャンスを生み出せる」と三浦さん。
葉から根まで、余すことなくせりを味わう

「せり鍋」の大きな特徴として挙げられるのが、根っこの部分を食べること。有機栽培で育てたせりは、茎の付け根や根際に甘みと香りが際立っており、鍋に入れるとその旨みが絶妙に溶け合う。 それまで仙台の人たちがせりの根を食べることはなかったが、そのおいしさに気づいた人が増え、今では「仙台せり」の象徴となっている。 また、季節によっておいしい部分が異なり、秋と冬には根、春には新芽と、その時期での楽しみ方が変わってくる。
「せり鍋」に合う肉としては、鶏肉や鴨肉のほか、魚やジビエもおすすめだという。出汁にも決まりはなく、いろいろな店で食べ比べができるのもおもしろさなのだと、三浦さんは語る。
震災を機に広がった「せり鍋」文化
はじめは、地元の“食いしん坊”の間で「おいしい」と評判に。しかしその名が広く知られるようになったのは、東日本大震災がきっかけだった。復興の応援として、「宮城の酒と合わせるなら『せり鍋』だ」と、いろいろなところから声がかかるようになったのだそうだ。他の料理は県外産の素材に頼るものも多かったため、地元産のせりを使うことで地域経済に寄与できることが大きかった。また、被災地を訪れた人たちが「折角来たなら、地元のものを食べて応援しよう」という機運も「せり鍋」の周知を後押しした。
三浦さんは、「せり本来のおいしさは、この土地でこそ伝わる」と考えている。そのため、販売は一部の例外を除き、仙台市内の店舗に限られている。「この地で食べてもらうことが、結果的に地域経済を元気にすることにつながるんです」と語る。
20年かけて商品価格を2倍に。地域の農業を未来へつなぐ

「せり鍋」人気のおかげで、この20年間は宮城県内のせりの需要が増え、価格が2倍になった。実際に宮城県の農協が示すデータによると、2007年の出荷量は622トンで金額は4億9,000万円。2019年は出荷量が345トンだったにも関わらず、その金額は5億5,000万円以上となっている。生産者の高齢化などにより出荷量が半減しているのに、その金額が上がっているのが分かる。
そのため、若い世代がせり農家を職業として選択するようになり、後継者不足の解消に繋がっているのだそうだ。
「生産者と、流通、そして食べてくれるところがうまく回れば、ローカルの大事な繋がりができるという事例になると思うんです」と話す三浦さん。そして、ローカルガストロノミー、つまり地域の風土、歴史、文化を料理に仕込むことで、さまざまな地域でこの事例を作っていくことができる。「せり鍋」の成功で価格が倍になったように、自分の地域の文化を掘り下げればもっといい未来があるのではないか、と希望を託す。
次世代のせり農家を育て、仙台を活気づける
三浦さんの夢は、せり農家を増やし、湿地を守りながら環境にやさしい農地を広げること。また、若い世代が農業に参入できるようなプラットフォームや教科書を作って、ロールモデルになること。そして食育など、より若い世代への教育も続けていくことだと話してくれた。
「せり鍋」の普及活動を続け、今や宮城の名物へと押し上げた三浦さん。 これからも、地域、そしてローカルガストロノミーのロールモデルとして活躍していくことだろう。



