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東本願寺の歴史
浄土真宗「真宗大谷派」の本山である「東本願寺」の正式名称は「真宗本廟(しんしゅうほんびょう)」。京都には西本願寺もあって、それぞれ「お東さん」と「お西さん」と呼ばれている。西本願寺は、新撰組の屯所とされたことでも有名な寺だ。東本願寺も西本願寺ももともとは1つで、浄土真宗の総本山だった。それが東と西に分かれたのは、1602年・慶長7年のこと。
本願寺は、11世宗主の顕如(けんにょ)が最盛期を築き、織田信長と戦った歴史を持つ。その顕如が亡くなったあと、信長と戦ったときの強硬派と穏健派で教団内が分裂。結局、豊臣秀吉の支持を受けた三男の准如(じゅんにょ)が穏健派を率いて12世宗主を継いだが、その後、徳川家康が長男の教如(きょうにょ)を支持し、准如と教如の対立はそのままに、教如を宗主とする「東本願寺」ができたのである。
焼失と復興、そして2019年に重要文化財に指定
その後、1641年・寛永18年には徳川家光から約1万坪の土地が寄進され、現在でも残っている渉成園が造られるなど発展していったが、幕末の蛤御門の変で、御影堂、阿弥陀堂など、伽藍の大部分が焼失。明治に入り、再建が進められ、阿弥陀堂と御影堂が1895年・明治28年に完成した。
しかし、そのどれもが近代和風建築を代表する歴史的価値のあるもので、文化財として登録されるなどしている。
先にあげた渉成園も戦火を免れることはできなかったのだが、こちらの諸建築も明治期に再建され、現在でも四季折々の花が咲き、変化にとんだ景観を楽しむことができる。
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