「青森県を代表する桜の名所といえば、弘前公園」と言われるほど、東北地方でも有数の桜の名所として知られる弘前公園。この公園は鷹揚園(おうようえん)ともいわれ、津軽10万石の居城「弘前城跡」でもある。総面積約50haと広い園内には、天守や濠(ほり)、櫓(やぐら)、城門などが残っており、花見の時期になると約2600本の桜が見事な花を咲かせる。
弘前城の歴史

弘前城の天守は江戸時代に建てられた12棟の天守の一つで、東北・北海道では唯一の現存天守 。
城跡は国の史跡としてはもちろん、現存する天守、櫓、城門は重要文化財にも指定されている。弘前公園は弘前市の中心部に位置し、東西約600m、南北約1000m、面積約50haにも及ぶ広大な敷地で、園内には天守(本丸辰巳櫓)のほかに濠、土塁(どるい)に囲まれた6つの郭(くるわ)、櫓3棟、城門5棟が残されている。

「これだけ大規模な城郭が当時の姿のまま公園として開放されている例は、全国的にも珍しいと思います」と話してくれたのは、弘前市公園緑地課弘前城整備活用推進室主査の東海林 心(しょうじ こころ)さんだ。
弘前城が築城となるまでの経緯

1590年までに豊臣秀吉より津軽の領地安堵を得た津軽為信(ためのぶ)が新たな城を築くことを決意し、高岡の地を選定したのが1603年。しかしながら計画は遅々として進まないまま、津軽為信は完成を見ることなく1607年に京で病死してしまう。58歳だった。その後2代目藩主となった三男・信枚(のぶひら)が1611年に高岡城(現在の弘前城)を完成させた。
5層だった弘前城が3層になったわけ

「天守は築城当初5層で本丸西南隅にあったのですが、1627年に落雷で焼失してしまったんです」と話す東海林さん。天守焼失後、再建の機運が盛り上がったものの計画は途中で頓挫。その後、弘前藩の石高が10万石に高直りしたのを契機に、1810年9代目寧親(やすちか)が本丸辰巳櫓名目で再建したものが天守として残った。旧名「高岡」を現在の「弘前」に改名したのは焼失の翌年で、厄払いの意味があったという。
倒幕の混迷を経て、弘前市民のシンボルへ

やがて明治維新により弘前藩も解体。弘前城は陸軍省の管理下となり、戦時中には兵器や弾薬の補給、保管、管理を担当した陸軍兵器廠(りくぐんへいきしょう)の地方出先機関である兵器支廠(へいきししょう)などに活用されたが、本丸御殿や宝物蔵など一部の施設は解体されたものの、天守や城門、櫓は保護されて残っている。また、太平洋戦争の戦災を免れて当時のまま残っている遺構が多いため、貴重な国の史跡となった。
そんな中、陸軍の火薬庫などとなっていた三の丸を除いた区画は、1895年に弘前公園として市民へと開放された。また、3階建ての天守の高さは約15mで、ここからの景観は素晴らしく、津軽富士とも言われる岩木山と公園内が一望できる。
歴史ある史跡は「観桜会(かんおうかい)」の場から「弘前さくらまつり」へ

人々が冬の重圧から開放された頃、総面積約50haと広い公園内ではソメイヨシノ、八重桜、シダレザクラなど52品種、約2600本の桜が美しく花を咲かせる。雪を頂いた岩木山が望める園内では、春を待ち焦がれた人々による数え切れないほどの車座の酒席が広がり、あちこちから聞こえてくるのは津軽民謡。築城から400年以上経った今でも、弘前城を有する弘前公園は、市民が真っ先に思い浮かべる憩いの場として親しまれ続けている



