岩手県の沿岸部・大槌町で創業し、およそ130年の歴史を誇る「赤武酒造株式会社」。2011年の東日本大震災で被災し、内陸部の盛岡市に移転。「復活蔵」と名付けた蔵で生まれた新銘柄「AKABU」を中心に、若き蔵人たちが新しい歴史をつくっている。
震災乗り越え「復活蔵」での酒造り

「赤武(あかぶ)酒造」は、岩手県の沿岸部・大槌町で1896年に創業。大槌湾に面した赤浜地区で、古舘武兵衛(ふるだてぶへい)が創業したことから「赤武」を名乗り、代表銘柄「浜娘」を中心に漁師など地元の人から愛されてきた。
しかし2011年3月11日に発生した東日本大震災で、蔵や社屋、自宅も全壊。「何もかもなくなり、廃業も頭をよぎった」と5代目社長・古舘秀峰(ひでみね)さんは振り返る。しかし、周囲からの激励に背中を押され再起を決意。早速、県内をまわり酒造りをする場所を提供してくれる酒造を探したが、社外の人間が出入りすることに難色を示す蔵も多く、なかなか思うような回答を得ることはできなかった。
そんななか「うちの蔵人と一緒につくるなら」という条件で手を差し伸べてくれたのが、盛岡市にある「桜顔酒造」だ。同年秋、古舘さんは桜顔酒造の蔵人たちの力を借り「浜娘」の醸造再開へと漕ぎ着けた。
こうして2011年も途絶えることなく「赤武酒造の酒」を醸造できたが、秀峰さんの胸中にあったのは「いずれは大槌へ」という想い。だが市街地のほぼ全域が被災した大槌で、用地を確保することは困難だった。「酒造りを続けるなら、ここでやるしかない」。幸い、国の補助金を利用できることになり、秀峰さんは盛岡に新しい蔵を建てることを決めた。
新蔵に集まった若き蔵人たち

「せっかく建て直すなら、世代や性別問わず、みんなが働きやすい蔵をつくろう」。秀峰さんは「力仕事を軽減できる作業効率の良さ」と「品質をしっかり保てる適切な温度管理」を重要項目として設計を依頼。2013年秋に完成し「復活蔵」と名付けた。
こうして2年ぶりに始まった、自社蔵での酒造り。しかし、ここに大槌で共に汗を流してきた蔵人たちの姿はなかった。先が見えない状況で「いつか蔵を復活させるから待っていてくれ」とは言えなかった。ひと月、ふた月と月日が流れるうち、みんな次の道を見つけ歩き出していた。
「寂しかったけれど、仕方がない。その代わり、意欲のある若い世代が集まってくれた」。そう言って秀峰さんは前を向く。震災後、盛岡で採用した従業員は約10人。ほぼ全員が酒造り未経験だが、20〜30代が中心となり蔵はだいぶ若返った。しかし一方で、復興支援の機運に乗って出荷数を伸ばしていた「浜娘」の売り上げに、翳りが見え始めていた。
「このままでは先細ってしまう。日本酒に馴染みがない若い世代もターゲットにした、新たな個性が必要だ」。そう考えていた矢先、東京農業大学で醸造を学んでいた息子・龍之介さんが帰郷し入社。秀峰さんは「これからの酒造りを、若い世代に託そう」と、龍之介さんを杜氏に任命し、新しい銘柄酒の開発を任せた。
新銘柄「AKABU」の誕生

震災があった時、龍之介さんは大学1年生。「醸造を学んではいましたが、継ぐかどうかはまだ考えていなかった」と話す。心が決まったのは、盛岡に蔵を建てると聞いてから。「学生のうちにできることを」と、各地の日本酒をひと通り飲み歩き、2013年には全国きき酒選手権の「大学対抗の部」で優勝もした。卒業後は、国の研究機関である「酒類総合研究所」の東京事務所で数ヶ月の研修を受け、酒造技術を研鑽。2014年の秋、岩手へ戻ってきた。
蔵に入って早速、龍之介さんは新しい銘柄酒の仕込みに取り組んだ。イメージしたのは「同世代が美味しいと感じる酒」。祖父の代から親しまれてきた「浜娘」のどっしりした熟成感とは異なる、華やかでフレッシュな味わいを目指した。
「学生時代、東京でトレンドになっている日本酒をひと通り飲んだなか、特に同世代に人気だったのが『十四代』『而今(じこん)』のような、フルーティーな香りと甘みのあるタイプ。これらを参考に、初めて日本酒を飲む人も『美味しい』と感じてもらえるお酒を造ろう、と思いました」。
こうして始まった、1年目の酒造り。龍之介さんは「大学の研究室と蔵では、設備も仕込みのスケールも桁違い。勝手が違う作業に戸惑った」と振り返る。何が正解かわからないまま、寝る間も惜しんで酒造りに没頭する日々。そうして生み出されたのが「AKABU」だ。
銘柄名には「赤武酒造のこれからを象徴する酒」という期待を込め、ラベルには「視覚的なイメージで覚えてもらえるように」と、赤い兜や武士をモチーフにした、インパクトのあるデザインを採用した。震災の悲しいイメージがついてしまった「浜娘」に代わる新銘柄として売り出すべく、首都圏に軸足を置き営業に取り組んだ。
「AKABU」の快進撃

「大学の研究室と酒蔵では、仕込む量が百倍以上も違う。勝手が違う作業に戸惑った」と、1年目の酒造りを振り返る龍之介さん。22歳の杜氏が初めて造った酒を、首都圏を中心とした取引先の酒販店は「1年目にしてはまあまあ」と評価した。十数店ほどで取り扱いが決まったものの、正直、満足のいく出来ではなかった。
課題を全て洗い出し、ひとつずつ改善しながら仕込んだ2年目。試飲した取引先からの「これは、化けたね」という言葉通り、「AKABU」はぐんと進化を遂げていた。評判は上々で、首都圏を中心に新規契約も増えた。手応えを感じた龍之介さんは、目指す方向性はそのままに、クオリティを高めることに注力していった。
2016年、世界最大級の日本酒コンテスト「SAKE COMPETITION」純米吟醸部門でGOLD、純米大吟醸部門でSILVERを受賞。 翌年には両部門でGOLDに輝き、さらに「岩手県新酒鑑評会」では最高賞の県知事賞に選ばれた。以来さまざまなコンテストや品評会で高く評価され、「AKABU」の名は全国の日本酒ファンに浸透していった。
みんなで造る

「AKABU」の評判とともに、次世代を担う若き杜氏として注目されるようになった龍之介さん。しかし本人は「一人でお酒は造れない。大切なのはチームワーク」と話す。
最初の2年は、未経験の蔵人たちとのコミュニケーションがうまくいかず「自分がやればいい」と気負っていた。しかしそれではやはり限界がある。3年目の酒造りが始まる前、作業工程を見直し「みんなで造る」体制を整えた。
元々この蔵は、秀峰さんが「働きやすさ」を重視し建てたもの。機械やシステムに頼れるところは頼り、人の手は細かな調整や管理に注力。シフト制で完全週休2日を実現し、従来は夜通しかかっていた麹室の作業も、8~17時の就業時間内にできるようにした。
こうして、みんなが万全の状態で酒造りに取り組むようになると、蔵全体のモチベーションも上がる。「今では、僕がいなくても作業が進みます」と龍之介さんは笑顔を見せる。
実は、ラベルに使われている兜や武士のイラストも、出荷などを担当している社員が描いたもの。「赤武酒造で働く全員で、ひとつの酒を造っているんです」。そう話す龍之介さんの表情は、どこか誇らしげだ。
「震災前」には戻らない。進化を続ける酒造り

盛岡の蔵で酒造りをはじめて10年以上が経った。「震災前と同じお酒が造れるようになりましたか?」。視察や取材でよく訊かれる質問に、秀峰さんはいつもこう答える。「いえ、今はそれ以上のお酒を造っています」。
現在、赤武酒造の商品ラインナップは「AKABU ニューボーン(生酒)」などの季節限定品を含め40種類ほど。銘柄別では「AKABU」シリーズが9割以上を占め、その大半が首都圏を中心とした県外に出荷されている。
一方、大槌時代からの代表銘柄「浜娘」は、岩手県内限定で流通。「AKABU」とは販売先を棲み分け、「地元の人が気軽に買いに行けるように」スーパーを中心に取り扱っている。元々は熟成感のある酒だったが、ここ数年でフレッシュな造りに変わりつつあり、昔からのファンにも「美味しくなった」と評判だ。
米は、きれいな味わいにまとめやすい「吟ぎんが」、酵母はリンゴのような吟醸香を生む「ジョバンニの調べ」など、原料は岩手県オリジナルのものが中心。湧水に恵まれていた大槌時代と比べ、盛岡の蔵では良質な水の確保に苦労したというが「酒質を左右するのは、原料や水以上に人の手技だと思っています。どのタイミングで麹を振るか、温度をどう調整するか。細やかに見極め、手を動かすことで、目指す味わいに近づくことができる」と龍之介さんは胸を張る。
日本酒を未来に受け継ぎたい

始めは未経験者だった蔵人たちも、経験を重ね、赤武酒造の酒造りに欠かせない存在に成長した。うち2人は南部杜氏の杜氏試験にも合格。「タイミングをみて、彼らの名前も瓶のラベルに載せようと思っている」。そう言って秀峰さんは眼を細める。
22歳で杜氏になった龍之介さんも30代に。「若い世代に手に取ってもらえるお酒を」という想いは、今も変わらない。「酒造りは1年1年の経験の積み重ね」とブラッシュアップと探究を続け、近年では「飲み疲れしにくい」アルコール度数低めもの、スパークリングなどバリエーションも広げている。また今後は、地元の酒販店や飲食店と協働し、全国から岩手へ、“わざわざ”AKABUを飲みに来てもらうような機会もつくっていきたいという。
「ふだんはビールや酎ハイを飲んでいる人でも、日本酒を口にする機会は必ずあるはず。その時に『美味しい』『また飲みたい』と思ってもらえる『日本酒の入り口』のような存在でありたいです」と語り、「そのためにも、いいお酒を造らないと」と笑顔を見せた龍之介さん。日々の努力と挑戦から生まれる一滴一滴が、赤武酒造の新たな歴史を築きあげ、そして日本酒の未来も創っていく。