130年以上の歴史を持つ「久原(くばら)本家グループ」は、「茅乃舎だし」で知られる「茅乃舎(かやのや)」、あごだしを中心とした多彩な調味料・食品を提供する「くばら」、辛子明太子で有名な「椒房庵(しょぼうあん)」など、複数ブランドを展開する食品メーカー。そのこだわりと品質の良さで高い支持を得ており、国内外で多くの人々に愛されている。福岡市郊外の久原村(現久山町)で小さな醤油屋「久原醤油」として創業した「久原本家グループ」がいかにして福岡を代表する食品メーカーへと成長を遂げたのか、その軌跡を辿った。
受け継がれる地元への感謝の気持ち

福岡市内から30分ほど、清流に沿った山道を登った先に大きな茅葺き屋根の日本家屋が現れる。それが「御料理 茅乃舎」。春には桜、初夏にはホタル、秋には紅葉と、桃源郷のような世界が広がるこの場所こそ、「久原本家グループ」にとって原点といえる特別な土地なのだ。
「久原本家グループ」の物語は、1893年に久原村で創業した醤油屋に遡る。創業者・河邉家は江戸時代から米や農作物を黒田藩に納める庄屋として地域に貢献してきた。明治時代には、4代目であり、現代表を務める河邉哲司さんの曾祖父である河邉東介さんが初代久原村長となり、村の発展に尽力。しかし、それが逆に家計を圧迫することになり、家族は困窮してしまう。そんな中、地域の人々が一丸となって河邉家の再建に協力。こうした支援を受けて誕生したのが「久原醤油」だった。これが現在の「久原本家グループ」の礎であり、屋号に地名を掲げたのは助けてくれた村の人たちへの感謝の気持ちが込められているからだ。
「モノ言わぬモノに モノ言わす モノづくり」

波乱の歴史と挑戦
「久原本家グループ」を現在に至るまで成長させたのは、4代目代表の河邉哲司さんだ。しかし、その道のりは平坦ではなかった。初代は学者肌で商売には向かず、2代目は精力的に販路を広げたものの、戦争により販路が断たれ、哲司さんが入社した頃には、企業は従業員6名とともに厳しい時代を迎えていた。当時、近隣をトラックで回りながら醤油を届け、家庭の台所に空瓶を補充する日々を送っていた哲司さんは、食生活の変化や核家族化が進み、醤油の需要が減少していくことに深い危機感を抱いていた。
醤油はその地域ごとの味や食文化を支える大切な存在である。地元の醤油がなくなることで、地域の食文化が失われてはいけない、また初代を支えてくれた地域の人たちのためにも事業を続けなくてはという強い責任感を感じていた。河邉さんが存続のための打開策を模索するなか、まず思いついたのは他社商品に付ける醤油を使ったタレを作るOEM事業だった。その読みが見事に的中し、売上もぐんぐん伸びて取引先からの評判もよかった。しかしこれでは「久原醤油」という名前を知ってもらうことにはつながらず、下請けの不安定さもあった。いつ競合に取って変わられるかわからない不安を払拭するためにも次なる取り組みを思案。そこで目を付けたのが自社ブランド製品の開発だった。
地域の食文化を踏まえた商品開発

ブランド開発にあたり2つのことを理念に掲げた。ひとつは、醤油蔵を原点とする会社として醤油の役割がそうであるように「つねに素材の味を、引き立てるという味作りをすること」。もうひとつは「地元の食文化の発信」だ。
醤油屋としては異端児的ではあるが、最初に手掛けたのは辛子明太子だった。すでに博多の名物として知られたくさんのメーカーが名を連ねる業界においてどのように差別化するかを検討した結果、高級路線でいくことに決めた。最高級の北海道産・スケトウダラの卵にこだわり、いかに素材以上の味わいに仕上げるか、どのようにして味付けで個性を出すかに注力した。ブランド名は「椒房庵」、パッケージも洗練されたデザインで差別化を図ったことで、ギフトや福岡みやげとしてのニーズが高まり、着々とファンを増やした。「上質な明太子=椒房庵」というイメージが地元で普及してきたころ、直営店と通信販売という新たな販路も開拓。椒房庵が軌道に乗り、少し名前が売れてきたところで、次なる商品の開発に着手。OEM事業で培ったノウハウを元に調味料の開発を始めた。
次なるブランド「くばら」は、家庭で気軽に使え、スーパーなどの量販店での販売を中心とする商品をラインナップ。まずは博多の焼鳥店でお通しとして出される“ざく切りキャベツ”を家庭で楽しめる「キャベツのうまたれ」を販売したところ、いきなり大ヒット。これを皮切りにだしつゆや鍋のスープなど、九州・博多独自の食文化に根差し、素材のうまみを引き出す調味料を次々に発売した。博多で馴染みのある味が地元で再認識されると同時に、全国の人たちにも受け入れられていった。
日本の食文化、伝統を継承する場所

自社ブランド「椒房庵」、「くばら」の名前が徐々に広まっていったのを機にもっと多くの人々に自社製品を知ってもらい、地域の食材と食文化を守り伝えるための拠点を作る計画が持ち上がる。場所は、自らの原点に立ち戻る意味でも、支えてくれた地元を盛り上げるためにも、久山町で迷いはなかった。
河邉さんの母方の実家である造り酒屋の母屋が茅葺きだったこともあり、醤油屋として日本の食文化を守り、消えゆく伝統を後世に伝えたいという強い思いを持っていた河邉さんは、新しい店を「日本文化を総合的に伝える場所」にしたいと考えていた。こうして「久原本家」グループの食へのこだわりやおもてなしの心を伝えるための舞台となる「御料理 茅乃舎」をこの特別な土地に開業。これが「茅乃舎」ブランドの誕生であり、社として大きな1歩を踏み出す拠点となる。
とはいえ、開業当初は地元でもほとんど知られていない場所だったため、果たしてこんな辺鄙なところにお客様が来てくれるのだろうか、自分たちの料理にそこまでの吸引力があるのだろうか、不安もあった。しかし、秘境ゆえに興味を掻き立て、四季折々の美しい自然、茅葺きの屋根や土間のある、どことなくホッとできる和の空間、そして季節ごとの料理を求めて、遠方からたくさんのお客様が訪れるようになった。「人里離れた自然豊かなところに、こんな素晴らしい日本家屋がポツンと建っていて驚きました。建物もお料理も記憶に残るもので、また誰かを連れてきたい」と高評価。河邉さんは、またもこの土地に支えられたことを実感したそうだ。
手間ひまを惜しまず「美味しさ」を追求

お客様のなかには遠くまでわざわざ……という思いもあり、空間、料理、おもてなし、すべてにおいて自ずと期待値は上がる。その期待に応えるべく、わざわざ来てよかったと思ってもらえるような料理を料理長が日々熟考し季節ごとのコースを組み立て、手間暇かけてつくる。特に料理のベースとなる出汁には、素材選びから引き方まで細心の注意を払い、最上のものに仕上げた。

中でも開業時からの代表的なメニュー「十穀鍋」は好評で、「どのようにだしを取っているのか?」というお客様の要望が増えたことで、河邉さんは家庭でも楽しめるだし作りに挑戦してみようと一念発起。料理長とともに試作を重ね、素材にこだわり、時間と手間を惜しむことなく作り上げた焼きあご入りの「茅乃舎だし」が完成した。
「あご」とはトビウオのことで、他の魚と比べて雑味の原因となる脂肪分が少なく、スッキリとした甘さと深い旨味を感じさせる上品な味わいが特徴。「あごが落ちるほど美味しい」ことから呼び名がついたという説もあり、九州では古くから親しまれ、特に博多の郷土料理「博多雑煮」にはなくてはならないものである。ただし、高級食材のためこれまで家庭では正月などの特別な時しか使われていなかったが、この「茅乃舎だし」の誕生によって鍋ものやうどんなど日常的にあご出汁が味わえるようになった。また、九州や福岡のみやげとしても各地に広がり、あまり馴染みがなかったにもかかわらず、その美味しさゆえにリピートする人が増え、瞬く間にファンを増やしていった。クオリティを追求するブランドとしてたくさんの商品が続々登場し、現在全国で約30店舗の「茅乃舎」専門ショップを展開する一大事業に成長した。
河邉さんが語るように、「茅乃舎だし」はグループの目指す“モノ言わぬモノに モノ言わす モノづくり” の象徴。美味しいものを食べた人は、それを誰かに伝えたくなる。商品そのものは何も語らないが、期待を超えた美味しさが、自然とその価値を伝えてくれるのだ。
博多の出汁を世界へ
今や鰹節や昆布、椎茸に続く、第3の出汁ともいわれるほど“あご出汁”は全国の食卓に浸透した。「久原本家グループ」の次なる目標は、海外での出汁文化の普及だ。「醤油があれだけ受け入れられたのだから、出汁も十分可能性はあるはず。日本の食文化を世界に広げることで、近年沈みがちな日本を活性化したい。地方の醤油屋でもチャレンジすればチャンスがあるというビジネスモデルを築きたいと考えています」と河邉さん。
130年以上の歴史のなかで、地域の食文化を守り、新たな挑戦を続ける「久原本家グループ」の今後の展開に期待したい。