現在の城主は猫? 雲海に浮かぶ、天空の山城「備中松山城」/岡山県高梁市

岡山県の中西部に位置する、高梁市。その市街地の北側にそびえる臥牛山(がぎゅうざん)に建つ、「備中松山城」。江戸時代以前に建設された天守が保存されている「現存12天守」のひとつに数えられる。そのなかで山城として天守が残っているのはここだけという、大変貴重な城だ。

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「備中松山城」の歴史をたどる

写真提供:(一社)高梁市観光協会

現存天守が標高約430mの高さにある備中松山城。その標高や地形故に“雲海”が発生しやすく、しばしば見ることができる。そこに天守が浮かぶように見える様子が美しく「天空の山城」とも形容されている。

高梁市教育委員会社会教育課・三浦孝章さんによると、「高梁市はすり鉢状の盆地という地形なので、発生した雲海がとどまりやすいという特徴があります。そのため、高い確率で雲海に遭遇できる場所なんです」。なかでも、10月から12月が雲海のベストシーズンとされている。その幻想的な姿は、城の北東部にある、「雲海展望台」から望むことができる。

城主の移り変わりとともに、城も進化

備中松山城が建つ臥牛山は、牛が横になっているような形からその名が付けられており、大松山、天神の丸、小松山、前山の4つの峰からなる。
1240年、当時の地頭・秋庭重信により大松山に砦が築かれたのが、備中松山城の始まりとされる。その後、三村元親が城主を務めていた1574年には、臥牛山一帯に砦が築かれるまでに。1600年の関ケ原の戦いの後、徳川幕府の支配下に置かれた際には、小堀正次・政一(遠州)親子が奉行として、この地に赴任。御殿と城の修築に着手したと伝わる。

1642年には、水谷勝隆が城主に。その息子、勝宗は1681年から約3年をかけて、城の大規模な修築を行い、櫓や大手門なども建設し、現在残る城の全容が完成した。
1868年、明治新政府軍と旧幕府軍が対立した戊辰戦争では、朝敵とみなされた備中松山藩。当時、藩政改革に取り組んでいた、陽明学者・山田方谷らの決断により、無血開城を果たす。そのため、城が壊されることを免れることとなる。

忘れ去られた存在から、町を挙げての保存・修復へ

写真提供:高梁市教育委員会

一度は危機を乗り越えたものの、1873年には、「廃城令」が公布される。備中松山城は国により競売にかけられ、地元住民が購入したと伝わるが、山の上にありすべてを解体するにも費用がかかりすぎることから、そのまま放置されることとなる。以降、その立地のため、誰の目に触れることもなく時が過ぎていく。いつしかその存在自体が忘れ去られ、荒れ果てた城となってしまっていた。

大きな転機が訪れたのは、1927年のこと。備中松山城の歴史を知り、その価値を認識していた地元中学校の教師が中心となり、本格的な城の調査がスタート。住民すら知らなかった城の存在が明らかとなり、次第に保存への気運が高まっていったのだ。
そうして1939~40年には、「昭和の大改修」を実施。「その際には地元の小・中学校や女学校の児童・生徒らが、約2万枚もの瓦をかついで山頂にある城まで上がったというエピソードが写真とともに残っています。まさに町を挙げての城の修復であったようです」と、前出の三浦さん。その後、1957年、2000年と、これまでに3度の大きな改修を経て、現在の姿となった。

戦火や自然災害に遭うことなく、往時の姿を今に

天守までは、8合目にある「ふいご峠駐車場」から急な山道を20分ほど歩いていく。近づいてくると、自然の岩の上に石を積んだ石垣が現れてくる。なかには約10mのそそり立つ岩盤を取り込むように築いた石垣もあり、その迫力に圧倒される。このように山の地形を生かした石垣もこの城の見どころだ。
天守は、木造瓦葺きで、二層二階の建物。高さ約11mと、現存12天守のなかでもっとも低いが、天守の正面の唐破風が特徴的な外観を誇る。

1階には、天守では珍しく、囲炉裏を備えているほか、城主一家の居室になった「装束の間」も残る。2階には、水谷勝宗が城の修築をした際に、自分の守護神を祭る「御社壇(ごしゃだん)」を設置している。城の一番高い場所から高梁の町を守ってもらう意図があったと思われる。

「戦争で空襲を受けることもなく、地震をはじめとする自然災害も少ない土地であったことも、天守が現在まで残っている理由だと考えています」と、三浦さん。

猫城主・さんじゅーろーを迎え、新たな魅力を備えた城に

時代の変遷とともに、城主も移り変わってきた歴史を持つ、備中松山城。そして現在、城主を務めるのは、なんと猫! 

もともと高梁市内で飼われていた猫が、平成30年の西日本豪雨の後に飼い主宅を離れ、この城に住みつくようになったという。すると「お城にかわいい猫がいる」とのうわさが広がり、地元テレビや新聞などで紹介されると、またたく間に人気者に。高梁市観光協会によって保護され、備中松山藩出身で新選組隊士で七番隊の隊長を務めた武士・谷三十郎と、最初に見つかった場所が三の丸であったことから「さんじゅーろー」と命名。城の管理事務所のある「五の平櫓」で暮らすこととなった。

その人気を受け、2018年12月16日には猫城主に就任。さんじゅーろーの体調や気分にもよるが、一日2回、城内を見回りする散歩の際に、その姿を見ることができる。
そして現在は、さんじゅーろーに会うために、全国各地から多くの観光客がこの城を訪れている。2024年3月には、備中松山城が建つ臥牛山の南麓に位置する石火矢町の武家屋敷・旧埴原家内に、記念館「猫城主さんじゅーろー あしあと館」がオープン。その人気はとどまることを知らない。

江戸時代の天守が当時のまま現存する、日本唯一の山城である「備中松山城」。雲海に天守が浮かぶ情景は、往時から変わらず訪れた人を魅了する。そんな、当時の人たちも見ていたであろう幻想的な景観と、この城が歩んできた歴史に思いを馳せ、これから先も岡山県が誇るべき景勝として、変わらず守り続けていきたい。

ACCESS

備中松山城
岡山県高梁市内山下1
TEL 0866-21-0461(高梁市観光協会)
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