好奇心と飽くなき探求心が変化に富んだ作風を生み出す陶芸家・松崎健さん/栃木県芳賀郡

陶芸の重要無形文化財技術保持者、いわゆる人間国宝である島岡達三氏を師に持つ陶芸家の松崎健さん。師である島岡氏の下で民芸陶器として栄えた益子焼を学び、そのまま民芸の道に進むと思いきや、まったく違った方向へ進んでいった松崎さんの作風。「面白そう」からはじまり、「どうやったらできるのだろう」と考え、常に試行錯誤してきた。

目次

益子で「やりたいことをやってきた」から作れた作品

日本ばかりでなく、ニューヨーク・ボストやイギリスなど海外でも活躍を見せる陶芸家・松崎健氏が栃木県益子町に「遊心窯」を開窯してから約半世紀。同氏が手がける焼き物は多岐に渡るが、なかでも薪を使った原始的な穴窯で焼き、窯の炎が生み出す偶然の色彩が魅力の「穴窯窯変(あながまようへん)」は力強くて圧巻であり、特に目を見張る。

人間国宝・島岡達三氏に師事し民芸の道を極めるかと思われた松崎さんが、なぜ窯変に惹かれていったのか。

陶芸の里「益子」

栃木県と茨城県の境にあり丘陵地である益子町は、「益子焼の産地」として全国に名を馳せる。益子焼は江戸時代末期、黒羽藩の藩主が益子の陶工に土地を与え、生産量を着実に増やしたことで御用窯(ごようがま)となった。御用窯とは広義になるが、藩が陶工・窯業を保護や育成をして援助したものをいう。明治維新で徳川幕府が無くなり、廃藩置県により藩の庇護を失ったあとは各窯が経営し販路を拡大。火鉢やすり鉢、かめや釜などの日用品として生産されていたのが益子焼だ。

益子焼の陶工から人間国宝に認定

益子には、1955年(昭和30年)第1回の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された濱田庄司氏がいた。濱田氏は「民芸運動」の中心的活動家。さらに濱田氏以外にも人間国宝に認定された人物がもう一人。松崎さんの師匠である島岡達三氏だ。同氏は「日本民藝館」を訪れたことがきっかけで民芸に目覚め、1940年に濱田の門下に入り、1954年に益子で窯を開き本格的な作陶を開始した。

父の影響で幼い頃から民芸に親しみ、いつしか陶芸の道へ

松崎さんの父は日本画家であり、民芸の収集家だったと話す松崎さん。幼いころから身の回りには江戸時代や明治時代のものがあり、骨董市に連れて行ってもらっては売買の様子に興奮したそう。そんな父の影響もあってか、高校の美術の授業でろくろを挽いたことがきっかけで陶芸にのめり込んでいく。

高校の先生のすすめで変えた進路

陶芸の授業がきっかけで芸術科への進学をすすめられた松崎さんは、玉川大学芸術科に入学して陶芸を専攻。授業の課題は早々に終わらせて、1時間に湯呑を何個つくれるか友人と競争をし、20個以上はろくろで挽いたそうだ。ろくろの基礎は大学1年の時には身についたという。「自分の中に作家と職人がいる」と自らを分析する松崎さんだが、大学時代に身につけたスピード感は今の職人の部分に活きているのだろう。

島岡達三氏へ師事

父の知り合いだった島岡達三氏の下で修行することを大学在学中に決めて、卒業後に弟子入り。約束していた3年と延長してもらった2年の合計5年、島岡氏の下で陶芸に対する考え方や物を創る時の姿勢には哲学的なものが大切だと学ぶことができたという。

延長の2年間ではオリジナルの食器作り、文様の研究や白化粧泥の試験を重ね、 独立したときには自分の型ができていた。この間に創りあげた呉須釉鷺文(ごすゆうさぎもん)、白掛線文(しろがけせんもん)、鐵地刷毛目文(てつぢはけめもん)、青地刷毛目文(あおぢはけめもん)、葡萄文(ぶどうもん)、兎文(うさぎもん)、筒描流水文(つつがきりゅうすいもん)、その他オリジナルの文様がその後十五年間の松崎さんを支えることになる。

島岡氏から離れて、自分のやりたいことに挑戦

独立し、順調に進んでいたかと思われた松崎さんだが、ある日、海外の美術関係者に自身の作品を「島岡氏のコピー」と言われたことで、これまで考えたこともなかった疑問が湧いた。以来、「釉薬と形が似ていて模様だけが違う。そうなると模様を変えた時に誰の作品なのだろうか?」という考えばかりが、頭の中をぐるぐると回るようになり仕事すら手につかなくなった。そして、当時つかっていたろくろや益子の材料をやめて手びねりに変えるなど新たな技術の習得に奔走することになる。

古田織部の思想に憧れて学ぶ

島岡氏の下で学んだ技法や作風から距離を置くことにした松崎さん。間もなくして、古田織部の思想や織部の作風が「日本のルネッサンス」だと考え、面白いと思うようになった。古田織部とは、桃山時代の武将であり、茶人としても有名だった人物。その名を冠した織部は斬新な造形と意匠が特徴的な焼き物で、同氏がその模様や形状、色調を好んだことが由来となっている。

松崎さんは織部様式の基本を学びつつ、織部様式が京都から西に一気に広がったエネルギーを独自に解釈し、黄瀬戸、瀬戸黒、志野までを織部として捉えて試行錯誤を重ねていった。師匠を持たずに自分が興味を持つことを試しながら身につけることで、真似事ではない作風を手に入れることになると考えたそうだ。それらは師匠である島岡氏にも言わずに始めたことで、知られた後は2年くらい音信不通になったそうだが、その後、展覧会のレセプションで島岡氏に再開した際に「本来ならば破門だが……」と含みながら言われたことで、ずいぶんと気が楽になったと話す。

1978年からは毎年のように京王百貨店新宿店にて個展を開き、それが評判となり、次第に国内だけでなくニューヨークやボストンとイギリスなどでも個展を開催するようになっていった。

その後、1980年に国展・野島賞を、1984年に国展・会友優作賞を受賞。華々しい受賞歴も残した。

終着点は定めずに土のエネルギーを感じ取る

ひとつの技法を貫き通す人が多い陶芸の世界で、色々なことを敏感に感じ取り、常に変化していけばいいかという考えで作品をつくる。「僕みたいに色んなことをやる人はあまりいないんだけど、自分はそういう風にしかできない」と話す松崎さん。ただ、土のエネルギーというものはずっと求めてきた。面白い土に出会えたら「なんとか表現できないかな」と思い、さらに「早く器にしたいな」と思うそう。「ちょっと面白いな」と思って新たな試みをはじめる姿は今も健在だ。

見えてきたスタイルこれからも

時代が変われば求められるものも変わるのではないか。変化を受け入れて自らも変化する。益子の作家と料理人とで創る器、新しい解釈で器をつくるプロジェクトGENDOを立ち上げた。普段つくっている作風とはまた違うデザインの器だが、作家と職人が自分の中にいると話す松崎さんの職人の部分がでてきて「やっていて楽しい」という。

ずっと未完だから、終わらない挑戦

新しい土が手に入ると、何を作って穴窯のどこに置いて焼こうか考えるとワクワクする。

「自分は、やっぱりやりたいことを最後までやろうかなって思ってます。いろんなチャレンジを続ける。着地点を求めてやってるわけじゃないので、ずっと未完成でいいかなっていう感じですかね」と話す松崎さんの挑戦はまだまだ終わらない。

ACCESS

遊心窯
栃木県芳賀郡益子町益子4090-2
TEL 0285-72-0688
URL http://www.yuushin-gama.com/
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