嘉永元年(1848年)創業の「植彌加藤造園株式会社(うえやかとうぞうえんかぶしきがいしゃ)」。京都府京都市左京区に本社を構え、170年以上続く歴史の中で、国の名勝に指定されている南禅寺方丈庭園をはじめ、東本願寺の飛び地境内地である渉成園や東山第一と賞賛される同市東山区の智積院の庭園、近年では星野リゾートの最上位ブランドである星のや京都の庭園など、名だたる名園を手掛けてきた。同社の8代目を務めるのは京都芸術大学にて日本庭園分野の教授としても教鞭を執る加藤友規さんだ。
経年変化までデザインするランドスケープアーキテクト
加藤さんは、京都市にて神社仏閣の庭園を中心に、日本庭園の作庭や育成管理を行う造園業の家に生まれ育った。初代加藤吉兵衛が創業し、南禅寺の御用庭師を務めて以降、8代に続き造園業を営んできた名門だ。特に前述した南禅寺との関わりは深く、5代目の次郎氏の頃には、息子である彌寿推氏・末男氏とともに国宝に指定されている南禅寺・小方丈に面する西側庭園(如心庭)や北側庭園(六道庭)を、彌寿推氏が6代目を継いでからは、同寺院の華厳庭を作庭した。そんな、偉大なる祖父や父の背中を見て育った加藤さんが造園の道を志すのは当然のこと。
千葉大学園芸学部で学んだ後、家業に入り、20代からずっと造園業に携わってきた。現在では、京都芸術大学で庭園研究の指導に取り組むほか、国内外で多数講演を行い、造園分野に於いて権威ある賞と言われる「日本造園学会賞」をはじめ、受賞歴も多数。まさに仕事の範疇を越え、日本の造園学の発展に貢献する、この分野のエキスパートだ。
加藤さんは造園業に従事する際、常に心がけていることがある。それが、庭園の個性を最大限に活かし、経年変化までデザインすること。神社仏閣の多い京都に居を構える造園業として代々培ってきた伝統的な作庭や育成管理の技術に加え、CAD(コンピュータ上で製図を行うためのツール)を用いたデザイン敷石ユニット工法なども積極的に取り入れることで、日本庭園はもとより、近代建築の庭でもそれを表現している。
つくる、そしてはぐくむ。造園業のあり方
加藤さんが心がける「経年変化までデザインする」というのは、主に植物の手入れのことを指す。
これを定義した加藤さんは、庭という空間をゼロからデザインする作庭の重要性を加味したうえで、造園業に於いてはオーナーの想いやその庭園の個性を読み取り、長い時間をかけて景色を育んでいく育成管理がより大きいウェイトを占めると考えている。
ちなみに植彌加藤造園株式会社では、庭園の育成管理のことを「フォスタリング」と呼ぶ。その語源は「foster=育てる・養育する」で、同社では樹木の姿をただ維持するのではなく「景色を育成することこそ真の管理である」、という意味合いを込めて、このように呼んでいるのだそう。
重要文化的景観の在る地域に根ざして
そんな植彌加藤造園の育成管理を語るうえで欠かせないのが初代の頃から携わってきた南禅寺の各庭園だろう。なかでも特別公開などのタイミング以外では一般に向けた公開を行っていない「大寧軒」の庭園は、池泉回遊式庭園と呼ばれる池を中心に景観を観て回るスタイルで、石や岩で水の流れを表現した枯山水や、茶室に入るための通路として設けられた簡素な造りの露地庭園とはちがった、水の流れや植物が美しい自然の景観が豊かな庭。植彌加藤造園株式会社が代々育成管理に携わってきた同社きっての自慢の庭だ。
もちろん加藤さん自身も職人見習いの頃から大寧軒と関わり、ここで先輩たちが行う仕事を手本として、植物や自然景観のはぐくみを学んできた。
そもそも南禅寺の周辺は「京都岡崎の文化的景観」として、地域全体が重要文化的景観に選定されているほど、伝統的な建築と美しい庭園が多いエリア。
その理由として大きいのが、明治4(1871)年、窮迫する幕府財政を補強するために大名や旗本の領地を取り上げようと公布された上知令だ。
これによって社寺が持つ広大な領地が召し上げられ、約20万坪ほどあった南禅寺の敷地も同様に公有地化された。そこに第3代内閣総理大臣を務めた山縣有朋が別荘「無鄰菴(むりんあん)」を建て、明治23(1890)年に京都側へ引かれた琵琶湖疏水を利用し、躍動的な水の流れを加えた自然豊かな日本庭園を作庭。
眼前に望む東山の借景も相まって、まるで自然を切り取ったような景観に当時の人々は強く惹かれたという。それを皮切りに同エリアでは、現代風に謂うところの“近代日本庭園付き高級分譲住宅”の需要が拡大。旧財閥家や大企業の社長など、富裕層の別荘が急増し、後に名園と称される庭園が多くつくられた。
このような場所で修行に励み、研鑽を積んできた加藤さん。長年に渡る経験から得た、この地に根ざす造園業ならではの知見も山ほどある。
庭の持つ個性と向き合い、寄り添う
と、いうのも京都には個性が際立つ庭が多い。上方として古くからの文化人も多く、その歴史ごとの文化、地形や季節など、その組み合わせの数だけオリジナリティもあるという。
何百年も前に作庭され、作庭者がすでにこの世を去っているケースもあるから、育成管理だけを任されることも多い。
その際、加藤さんは作庭時から現在に至るまでの歴史の中でその庭が最も美しかった頃、つまるところの“黄金期”を見つけるよう心がけている。この庭にはどのような黄金期があって、それをどのように表現し、育成するのがベストなのかを考えるという。
また、作庭にはお茶や生け花のような流派はないが、その時代ごとの生活様式が反映されていることが多いから、その意図を読み取ることができれば再現性も高まる。
例えば禅の時代にはその思想が反映された飾り気のないストイックな庭が好まれ、一方、安土桃山時代には時の権力者の威厳を示すように豪壮で絢爛な庭が好まれた。もちろん社寺の宗派によってもスタイルはさまざま。
これらの要素を踏まえながら、先人の仕事に敬意をもって寄り添うことでインスピレーションが湧いてくるんだとか。
代々受け継ぐ「あんじょうよろしゅう」のマインド
では、こうした知見や技術はどのように受け継がれてきたのだろうか。
加藤さんも日本最古の作庭書である「作庭記」をはじめ、造園に関する文献はひととおり読み漁ってきたが、仕事をする上での基本的な学びは先代、先々代の頃から変わらず、ほとんど口伝。
松の葉ひとつにしても「ここをこのように剪定すれば、成長過程でこのように開いていく」など、経験に基づいた感覚を口頭や身振り手振りで先輩から伝え聞き、それを実践していく。修行時代には「伝統から学ぶ、仲間から学ぶ」をキーワードとして意識し、文字にできないことをフィーリングで感じ取っていたという。
現代社会では、明確な基準もなく仕事をするなんて時代遅れだと言われるかもしれないが、これは造園業に限らず、日本のものづくり全般に言えることだと理解している。
先輩からの「あんじょうよろしゅう=いい感じに仕上げなさい」を自分なりに分析し、日々の仕事に励んできた。
伝統技術にハイテクを取り入れ、日本庭園は未来へ、そして海外へ
近年では、海外のクライアントも増えてきた。とはいえ、外国人が日本庭園に興味を持つようになったのは今に始まったことではない。
安土桃山時代には日本で布教活動を行っていたポルトガル人宣教師のジョアン・ロドリゲスが堺の日本庭園を訪れた際に耳にした「市中の山居」という言葉を文献に残した。当時大変栄えた大都市のど真ん中に、まるで山中かと錯覚するような景観を庭で表現してしまう日本ならではの美の概念を賞賛したという逸話だ。
現在でも、世界中でその美意識が高く評価されているからこそ、先人の教えを守って地形や方位を読み取り、日本の固有種が育たない海外の地ではその土地の草木を使い、日が昇る方角や気候を取り入れ、ジャパンクオリティを追求した日本庭園を作庭している。
このように、伝統を重んじる加藤さんだが、現代のテクノロジーを邪険にしているわけではない。
むしろ最新技術が造園業にもたらした恩恵もある。
例えば、重機によって従来よりもはるかに少人数かつ短期間で庭をつくることができるようになったし、測量機の活用によって発掘された古い時代の庭園も景石の取り外し後、再設置時のズレを10㎜未満に抑える精度の高い復元が可能になった。従来は庭石ひとつでも完璧にもとあった場所に戻せなければ「文化財の破壊」と言われてしまったが、現代の技術と伝統技法を組み合わせることで、その課題は解決できる。
夢窓疎石(むそうそせき)や小堀遠州(こぼりえんしゅう)など、加藤さんが尊敬してやまない旧時代の名だたる庭の賢人たちにもできなかったことができるようになったわけだから、最新鋭の技術だって素晴らしいとは感じる。
ただ、なんでもかんでもそれに頼ってしまうのは伝統技術の損失にも繋がりかねないし、日本庭園に携わる以上は、高度成長期以前の古い作庭技法も大切にしたいとも思う。
伝統とノウハウを未来へ。後世に繋ぐバトン
加藤さんは常々「伝統を重んじつつ、できる限り革新的なチャレンジもしていきたい。」と考えている。
現代では革新的なチャレンジだったことも、それが100年後に伝統技術と呼ばれるようになっていたら、後世に何かを残せたことになるんじゃないか、というポジティブ思考だ。
職人として完全燃焼することも大事だが、自分が生涯をかけて積んできたものを後世に継承していけたらもっと良い。幸いにも現在、伝統産業に興味を持ち、造園業に就きたいと手を挙げてくれる若者たちが増えてきた。
そんな令和の職人たちの心意気も大切にしながらも、次代へ繋ぐためには若者でも理解しやすい仕組みへとアップデートすることも必要だと考え、会社全体でSECIモデル(個人が持つ知識や経験を組織全体へ共有するフレームワーク)の実践にも取り組んでいる。
「あんじょうよろしゅう」と声を掛けつつ、現代の若者にも寄り添ったやり方も交えて自分がこれまで学んできた伝統的な技術や知見、想いまでを余すことなく伝えることで、造園という仕事を通して、京都ならではの自然が織りなす景観美、歴史文化まで後世に残していけるよう、力を注いでいる。