陶器一般を指す「せともの」という言葉の由来にもなった「瀬戸焼」の産地として知られ、焼き物と共に歩んできた街、愛知県瀬戸市。
この地を拠点に制作する新進気鋭の陶芸家・樽田裕史さんは、
陶磁器に透かし彫りを施す「蛍手」に特化し、美しい光を纏った端正な器を数多く手がけています。
日本六古窯のひとつ、愛知県瀬戸市で窯業の専門学校に通い、陶芸家の道に進んだ樽田裕史さん。2021年に開催された「第1回日本和文化グランプリ」で優秀賞を獲得し、新進気鋭の作家として知られた樽田さんの器の魅力は「美しい採光」にある。明時代の中国にルーツを持つ技法をどのように進化させたのか、樽田さんが制作を行う工房を訪ねた。
日本六古窯のひとつ、愛知県瀬戸市
日本六古窯のひとつであり、鎌倉時代に加藤四郎左衛門景正が開窯したことが始まりとされる愛知県瀬戸市の「瀬戸焼」。やきものの原料となる良質な粘土が採取できたことからも発展し、陶器一般を指す「せともの」という言葉が生まれるほどに、長い歴史においてやきものづくりを牽引してきた。 名古屋の中心地・栄と瀬戸市の中心地を結ぶ名鉄瀬戸線も、1905年の開通に至るまでの誘致の目的は「大量のやきものを名古屋まで運ぶこと」だったりする。ただ開通後は費用の面から乗客も輸送することとなり、現在も地域に住む人や観光で足を運ぶ人たちの交通の要となったのだが。そんな歴史からも、当時の瀬戸のやきもの産業の発展ぶりを汲み取ることができる。
やきものに携わる事業所や就業人数は、全盛期と言われる1978年頃に比べて大幅に減少してしまったものの、現在も瀬戸市では窯、釉薬、素地、型などの工房がそれぞれ専門性を磨きながらやきものづくりを支えている。また、市内にはやきものが学べる「瀬戸工科高等学校」があるなど、やきものとともに歩んできた地域というのがよくわかる。
樽田さんも瀬戸工科高等学校(当時は瀬戸窯業高等学校)でやきものづくりを学んだひとりだ。
窯業の専門学校へ
樽田さんが瀬戸窯業高等学校に進学したのは、いわば消去法だった。「勉強も好きじゃなかったし、なんかおもしろそうだなと入学した」と振り返る。高校生だった当時は陶芸家になるつもりはなかったが、通学する電車で目にするスーツ姿のサラリーマンがずいぶん疲れているように見え、自分の目指すべき姿はこうではない、と感じたのだそう。
こうして樽田さんは高校を卒業後、そのまま同校の陶芸専攻科に進んだ。
そこで学んでいる際に、瀬戸市で活躍する陶芸家・波多野正典さんが弟子を募集するという話を耳にし、即応募。これが樽田さんが陶芸家として歩み始めるきっかけとなった。
師匠のもとであらゆることを学ぶ
晴れて波多野さんの弟子となった樽田さん。数多くの賞を受賞し、弟子の育成に力を注ぎながら陶芸の門戸を広げてきた波多野さんのもとで、土の準備やろくろなどの技術だけでなく、さまざまなことを学んだ。作ったものをどこで、どのようにして売っていくか。値段の交渉や、事務作業、梱包の仕方など、学校では教わらない陶芸家としての生きていく術を学んだ。
波多野さんのもとで5年学んだのち母校で実習助手をし、ワーキングホリデーでヨーロッパへ。やきものを学ぶのが一番の目的ではなかったが、結局、気になるのはやきもののことばかり。日本とは違う自由な風土や現地の作家の工房を見た瞬間、その“型にはまらない人間らしさ”が樽田さんの考え方に大きな変化をもたらしたという。
中国がルーツの技法・蛍手とは?
波多野さんのもとで学んでいる頃から自身の作風として売りにしてきた「蛍手」は、成形後しばらく置いてから生地が生乾きの状態で器面をくり貫き、透かし彫りを施す技法。透かし彫りにしたところを透明釉で埋めて焼成することで、光が透け、ガラスのような風合いが生まれる不思議な技法だ。 ルーツは明時代の中国にあるといわれ、古くから伝わる。この技法の難しいところは、生地に穴を開けることで割れやすくなったり、釉薬が埋まり切らなかったりすること。そのぶんロスも多くなるため、チャレンジする作家も少ない。生地が厚すぎると貫通させるのに苦戦するし、薄すぎると釉薬があまり入らず透け感がでない。樽田さんは厚みと透かし彫りのデザイン、それを実現する技術との絶妙なバランスを成り立たせ、それを自身の作品の強みとしている。
点を線へと変化させて
蛍手の技法は、一般的には小さな穴を開けていくものだが、樽田さんは線という独自の方向性を見出した。「人がやっていないことをやりたい」そんな思いが根底にあった。
下書きはするものの、削るのはフリーハンド。「曖昧さがいいのかなって。自分が出てるというか、人間が出ている感じがする」と樽田さん。同じ湯飲みを作るにしても、湯飲み自体の形は全部揃えるが、削る線はそのときのリズムによりけり。全く同じものは、この世にひとつとして生まれない。それが個性となり、味わいとなるのだ。2021年に「第1回 日本和文化グランプリ」にて優秀賞を受賞した作品「ゆらぎ」も、光と曲線が柔らかな雰囲気を醸しつつ、凛とした程よい緊張感も感じさせる,まさに”心地よいゆらぎ”を表現した自信作だ。
雲間から差す光のごとく
驚くことに、釉薬も樽田さんのオリジナル。釉薬に含まれる微量の鉄分がガス窯で焼成する際の化学反応で美しい水色を織りなす。
この風合いは、雲間から差す光や、扉を開けたときに隙間からこぼれる光をイメージしているのだという。同じ日でも朝と夜では光の加減が違うし、季節によっても光の色は異なる。同じ湯飲みで飲むとしても、日曜の朝に飲むコーヒーなのか、土曜の夜に飲む日本酒なのかで、違った趣が味わえるのが樽田さんの湯飲みの醍醐味だ。
今だから響く師匠の言葉
もちろん、樽田さんの作品には、まっすぐの線が細かく削られたタイプもある。スッとした光を感じさせるものや、小雨のときに歩いたときの電灯の光線から着想してデザインした幾重にも細かな線が彫られたデザインもある。このように「光」をテーマに、豊富な作品が生み出されているのだ。
若い頃はスタイリッシュな建築物が好きだったという樽田さんだが、ワーキングホリデーでヨーロッパを旅行しているときにノコギリの形状の山に感動したり、普段の生活においても自然が作り出す風景に心動かされるようになった。今になって波多野さんが修行時代になにげなく発した「自然のものが一番すごい」という言葉が胸に響く。
また、弟子入り当初、陶芸だけでなく木工やガラスなど、いろんな技術に挑戦したいと話したときに「ひとつのことを極めるのも大事」と言われたのも、今となればよく理解できる。当時は素直に受け取れなかったが、これまでの陶芸家人生において、できなかったことがひとつずつできるようになると「やはりひとつのことを極めるにも時間がかかるし、深いところにいくにつれ、楽しさがある」と気づくようになったという。
樽田さんは、ニューヨークのメトロポリタン美術館に日本のやきものが展示されているのを見て感動した経験から「自身の作品を海外の美術館に収蔵する」というゴールを持ち続けて作陶している。
「勢いで進み、いろんな寄り道をし、いろんな経験をしてきた20代を経て、30代半ばとなった今、将来を少し現実的に見据えていかないといけないと感じ始めた」と話す樽田さん。オリジナルの蛍手がこれからどのように進化を遂げ、どんな作風へと広がっていくのか。樽田さんの作った作品が海を渡り、海外の大きな美術館で展示される未来が楽しみで仕方ない。
1日の時間帯や、1年を通じて移ろいゆく季節で、陽の光はそれぞれに異なる顔を見せてくれます。休日の朝にゆっくりと。夜、みんなで集まって賑やかに。日々の営みの中で訪れる様々な場面に、私の器があるとうれしいです。