お大師さんの足跡をたどり、祈りを紡ぐ。四国遍路のスタート地点「霊山寺」

お大師さんの足跡をたどり、祈りを紡ぐ。四国遍路のスタート地点「霊山寺」

四国4県に点在する弘法大師ゆかりの霊場88ヶ所をめぐる四国遍路。信仰目的以外にも、観光や健康増進、アウトドア感覚で“お遍路さん”を始めた、という人も多いという。徳島県鳴門市にある霊山寺(りょうぜんじ)は、この四国遍路の一番札所。幾多の人々が祈りや思いを抱いてその出発点を訪れる。



修行のメッカだった四国


近年、霊場巡りがちょっとしたブームだという。西国三十三所観音や坂東三十三観音、熊野古道伊勢路など全国に数多くの巡礼路があり、シニア世代を中心にたくさんの人々が、聖地へと足を運んでいる。

その中でも人気が高いのが、四国八十八ヶ所霊場ではないだろうか。1,200年以上の歴史を持ち、全行程約1,460kmにおよぶ壮大な回遊型巡礼路で、日本遺産にも認定されている。 ちなみに四国八十八ヶ所霊場巡りは、 “お遍路” とも呼ばれる。由来は、険しい山々が連なる四国は、奈良や京都の都から遠く、修行の場に適した“辺土(へんど)”といわれていたから。それがのちに“遍路”に変化したものと考えられている。


四国の玄関口・鳴門市を出発点に


この四国遍路は、阿波(徳島県)、土佐(高知県)、伊予(愛媛県)、讃岐(香川県)と、札所番号の順に巡拝するのが基本とされる。そのスタート地点にあたるのが霊山寺だ。 同寺のある鳴門市は、大阪・兵庫から淡路島を経由して四国に入る玄関口に当たる都市で、霊山寺はその南西部に位置する。



2度の火災に見舞われた古刹


霊山寺の開創は天平年間。聖武天皇から信頼の厚かった僧行基が、天皇の命を受けて開いたと伝えられる。かつては荘厳な伽藍(がらん)が立ち並び、室町時代には阿波三大坊のひとつとして栄えたが、1582年、長宗我部(ちょうそかべ)元親の兵火により全焼。阿波藩主・蜂須賀光隆によって復興したものの、1891年には出火により本堂と多宝塔以外の建物を再び焼失している。今、私たちが目にする霊山寺は、100年あまりの歳月をかけて、当時の姿へと再建されたものだ。


四国霊場の生みの親・弘法大師とは?


この霊山寺に深い関わりのある人物が、平安時代初期の僧で、名筆家としても知られる弘法大師(空海)。全国にゆかりの地や逸話も多く、今なお「弘法さん」「お大師さん」と親しみをこめて呼ばれる仏教界のスーパースターだ。

774年に現在の香川県善通寺市で生まれた弘法大師は、804年に遣唐使の留学僧として唐に渡り、2年間密教を学んだ。帰国後は真言宗を開創し、日本国内で仏教の布教活動に力を注ぐとともに、民衆のための教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」の設立や、香川県の農業用貯水池の修築工事など教育や社会事業にも取り組んだ。


“いちばんさん”になった理由


弘法大師はたびたび生まれ故郷の四国で修行を行った。そして42歳のとき、人間の持つ88の煩悩をなくそうと、88ヶ所の寺院を選び札所としたことが、四国八十八ヶ所霊場の始まりとされている。

霊山寺が一番札所になったのは、四国の東北角から右回りに霊場を開くべく、彼がこの地を訪れたことに由来する。仏法を説く老師を弟子たちが取り囲む姿を見て、釈迦如来が天竺(インド)の霊鷲山(りょうじゅせん)で行った説法の様子と似ていると感じた。そこで天竺の霊山を大和(日本)に移すという意味で、「竺和山 霊山寺」と名づけ、霊場開設の成就を祈ったそうだ。地元では同寺のことを親しみをこめて「いちばんさん」と呼ぶ。


地域に根ざした接待文化


当初四国遍路は、修行僧が中心だったが、弘法大師信仰が高まるにつれて、日本全国から、そして世界各国からも人が訪れるようになった。宗教、国籍、性別、年齢等を越えて、誰でもいつでも遍路を始められる門戸の広さが魅力といえよう。

また四国遍路が人の心をとらえる理由の一つに「お接待文化」がある。地域全体で四国遍路を支える行いのことで、お遍路さんにお菓子や飲み物、宿などを無償で提供したり、「がんばってください」「ご苦労さまです」などと応援の声をかけることが、ごく自然に行われている。長い歴史の中で継続されてきたあたたかい風習が、厳しい巡礼の旅を続けるエネルギーになっているのだ。


お遍路スタイルで参拝を


ふつうにお参りするのもいいが、この機会にお遍路を始めたい人、お遍路気分を味わいたい人は、白衣、金剛杖、袈裟、菅笠など最低限の巡礼の衣装で参拝してはどうだろう。

金剛杖は1.5mほどの白木の杖で、お大師さまの化身とされる神聖な用具。休むときは先を洗って合掌する、トイレなど不浄なところには持っていかないなどのルールがある。 菅笠(すげがさ)は日除け、雨傘代わりに。笠に書かれた「同行二人(どうぎょうににん)」とは、お大師さんと常に一緒であるという意味である。

数珠や教本、納経帳、納札(おさめふだ)、線香、ろうそく、ライターなどの持ちものは、頭陀袋(ずたぶくろ)に入れて持ち歩くが、容量が大きく疲れにくいリュックを代用してもOK。靴はスニーカーなど歩きやすいものを。

お遍路グッズは、霊山寺の駐車場横の総合案内所でそろえることができる。



訪れる人をあたたかく迎える境内


さて霊山寺の最寄りはJR高徳線の板東駅。駅を降り立つと、さっそく白装束に菅笠姿の人があちこちに見受けられる。

駅から徒歩で約10分、風格ある入母屋(いりもや)楼門造りの仁王門から境内へ。左手には縁結び観音や手水舎、鐘楼堂、右手には錦鯉が泳ぐ放生池とその向こうに大師堂が見える。池のそばの地蔵菩薩像に向かって、6体の童子像が水面で祈りを捧げる姿がどことなく愛らしい。厳かでありつつもおおらかな雰囲気に“いちばんさん”の懐の深さを感じる。



読経が響く荘厳な本堂


手水舎で手と口を清め、鐘楼ではお参りしたことを告げる意味で鐘を1回つく。そして境内の一番奥にある本堂へ。

本堂は、1964年四国開創1150年に合わせて改装され、拝殿に奥殿を増築した造りとなっている。本尊の釈迦如来像は、左手に玉を持つ身の丈4尺(約120cm)の坐像。これは弘法大師が修法の際に刻んだものと伝えられている。ほかに地蔵尊菩薩三尊像、賓頭盧(びんずる)行者坐像、納札を固めて作られた納札大師が安置されている。

天井を多数の吊り灯籠で埋め尽くされた本堂は、柔らかい光に照らされてなんとも幻想的。拝殿中央の天井にはダイナミックな龍の絵が描かれ、空間の神秘性をさらに高めている。線香の燻りやお遍路さんの読経の響きの中、手を合わせれば、おのずと心が引き締まる。


漆黒のお大師さんをまつるお堂も


お遍路の参拝手順にのっとるなら、本堂のあとは大師堂へお参りしたい。放生池に面した方形造りの端正な仏堂で、全身漆黒の弘法大師の像を拝むことができる。


故人や先祖をおだやかに見守る十三仏


本堂に向かって左手には、等身大の十三仏が並んでまつられた堂がある。十三仏は亡くなった人を見守り極楽に導いてくれる13人の仏様とされ、先祖や亡くなった人への供養のために訪れた参拝者は、特に心を込めて拝んでいくようだ。

十三仏の中で不動明王だけは隣の不動堂に。カッと目を見開き、怒りの表情を浮かべているが、これは衆生を厳しく教え、導く心の表れであり、煩悩退散、厄除け等のご利益があるとされる。



同寺最古。風格漂う多宝塔


十三仏堂と鐘楼との間には、約600年前の姿を今に残す多宝塔がそびえる。下層は方形、上層はお椀をかぶせたような円形をした木造二重塔で、中には五智(ごち)如来がまつられている。内部を見ることはできないが、歴史を感じさせる風格のある佇まいは外観だけでも訪れた人の目を引き付ける。


さまざまなご縁を結ぶ観音さまが人気


仁王門から入ってすぐ左側、手水舎のそばにひっそりと立つ縁結び観音は、お参りする人が多いスポット。男女の縁だけではなく、健康や仕事などさまざまな縁をもたらすと信じられている。お賽銭だけでなく、水でお清めしながら真摯に祈るのがポイント。

すべてのお堂を回ったら、総合案内所横の納経所で御朱印を授けてもらおう。これから四国遍路を始める励みにもなるし、旅が終わったあとの思い出にもなりそうだ。

弘法大師は「一人ひとりが能力や才能をじゅうぶんに活かし切る生き方ができるよう努力しなさい」と説いたという。それは宗教的な縛りを越え、わかりやすく、現代の私たちにも通じる教え。霊山寺は、その教えを肌で感じ、すがすがしい気持ちで新しい自分へと踏み出せる、そんなパワーに満たされている。


ACCESS

霊山寺
徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻126
TEL 088-689-1111
URL https://88shikokuhenro.jp/01ryozenji/