戦う城から平和の象徴へ。築城当時のままの姿を現代に残す国宝「彦根城」

戦う城から平和の象徴へ。築城当時のままの姿を現代に残す国宝「彦根城」

かつて日本には数万もの城があったといわれているが、江戸時代以前に建てられた天守が現存している城となると、全国にわずか12城しかない。さらにその中で、天守が国宝に指定されている城は5城のみだ。そんな「国宝5城」のひとつに数えられ、毎年多くの観光客で賑わう「彦根城」を訪ね、その魅力に迫った。


西国の押さえとして最前線で戦う城



彦根城があるのは、西方に琵琶湖をのぞむ滋賀県彦根市。かつて近江国(おうみのくに)と呼ばれた地域だ。

1600年に起きた関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、勝利に大きく貢献した井伊直政に近江国の領地を与えた。井伊直政が与えられた琵琶湖の東岸はもともと徳川家康と対峙した西軍の将、石田光成の領地で、中山道と北陸道が合流する交通の要所であり、大阪の豊臣家と西国の大名たちを封じる“西の要”だった。

ちなみに、彦根城を築城する立地を決めたのは徳川家康だといわれている。その理由のひとつが、彦根城が築かれた「彦根山」は琵琶湖に近く、近隣の川を利用することで天然の堀ができるため。琵琶湖の水運を利用すれば京都や西国で異変があってもすぐに駆けつけられる上、当時の水運は陸運に比べて25倍もの人やものを運べると考えていたようだ。

つまり、家康が開いた江戸幕府のもと、万が一の敵襲に備え、最前線で徳川を守るために築かれた城が彦根城なのだ。


数々の偶然が重なった極上の保存状態


築城から400年を超える彦根城だが、現在でもその保存状態は非常に良い。日本中にある城の中でも、築城当時の姿を残しているものは意外と少ないというから、いかにこの城が地域の人たちから大切にされてきたかが伺える。しかし、彦根城が現在でも築城当時の姿を保っている理由はそれだけではない。数々の偶然も重なっているようだ。

最初の偶然は1615年。幕府より「一国一城令」という法令が出され、原則としてひとりの大名につき、城はひとつだけと決められた。これは大名が大きな軍事力を持つことを防ぐための法令であり、数日のうちに約400もの城が壊されたといわれているが、彦根城はそもそもこの一国一城令を念頭において築城されていたため廃城されることはなかった。


さらに明治時代になると廃藩置県によって藩の制度がなくなり、全国にある城を取り壊す「廃城令」が政府から出された。当時、彦根城もほかの城と同様に取り壊しの準備が進められていたのだが、直前になって明治天皇から「この城は保存するべき」という勅命が下り、解体の危機を逃れたのだとか。ほかにも第二次世界大戦の頃、 1945年8月15日の夜に連合国軍が彦根市を爆撃する予定だったが終戦により中止されたなど、複数の逸話が残されている。

このような偶然を経て、昔のままの姿を保つ彦根城。現在は天守と付櫓(つけやぐら)多聞櫓(たもんやぐら)が国宝に指定されている。


戦に備えて凝らされた数々の工夫


取材当日、彦根城をよく知る彦根市役所文化財課の三尾次郎さんに現地を案内してもらった。三尾さんによると、彦根城の表門から入ってすぐに始まる石段は、すべて山側に傾斜しているのだそう。斜面とは逆側に傾けてその先に溝を掘ることで、雨が降っても崩れにくい設計にしているのだという。

また、“西の要”とされた彦根城には数々の軍事的な工夫が凝らされている。一気に駆け上がることができないように道が曲がる場所に門が設けてあったり、天守に通じる唯一の道である「廊下橋」は簡単に落とせる仕組みになっており、その奥にある「天秤櫓(てんびんやぐら)」には向かってくる敵を鉄砲で攻撃するための小窓がついている。

いざ、戦になっても簡単には攻め落とせない、まさに“戦うための城”だと三尾さんは誇らしげに話してくれた。


石垣から歴史を紐解く



天秤櫓の土台になっている石垣は、左右で積み方が違う。向かって右側は自然のままの石を加工しないで積み上げた「野面積み(のづらづみ)」、左側は加工した石を落とし込むように積み上げた「落とし積み」になっている。野面積みは戦国時代から本格的に用いられるようになった初期の石積法で、落とし積みは江戸時代末期に現れた積み方だ。

「日本は地震が多い国なので、古い建造物にはいろんなところに地震の痕跡が残っています。この石垣もそのひとつ。幕末に三重県で大地震が起こったという記録があり、その時に左側の石垣が崩れて、積み直したのでしょう。当時の城は、あくまで“幕府からの預かりもの”。改修をする時は幕府に届出をする必要があり、この石垣を修復した際の写しも彦根城博物館に保管されています」。保管された書物から地震が起こった正確な時期がわかり、実際の石垣を見ると地震の規模や当時の技術がわかる。石垣ひとつとっても、注意深く見ることで歴史の痕跡が見えてくるのがおもしろい。


バラエティに富んだ建築美が凝縮された天守



彦根城の最大の見どころといえば、やはり国宝の天守だ。石垣を含めた高さが23メートル、3階3重と天守としては比較的小さいが、日本一を誇る大きな特徴がある。それは「破風(はふ)」と呼ばれる装飾つきの屋根が、現存する天守の中で最も多いこと。小ぶりな天守にさまざまな形をした18個もの破風がバランスよく配置されており、白い漆喰壁とのコントラストが美しい。2階部分の屋根で弓なりのカーブを描く「唐破風(からはふ)」は、素木のまま黒漆で仕上げられており、木部には井伊家の家紋である橘などの飾り金具が輝いている。

「徳川四天王」のひとりに数えられた井伊直政、江戸幕府の大老を務めた井伊直弼などから察せるように、当時の井伊家は譜代大名の中でも筆頭の家柄で、徳川の家臣の中でも、特に信頼が厚かった。彦根城の天守は、四方にたくさんの破風を設けることでどこから見て

もすきのない姿を城下に示し、遠くからでもよく見えるよう装飾性を高めることで、井伊家の威厳をより広く伝える役割を果たしたのだろう。


滋賀県は城づくりの“日本初”が集結した土地


城の象徴である天守だが、実用面での役割はほぼ倉庫、ということをご存知だろうか。壮麗な外観とは対照的に、内部は無骨な柱や板張りの床がむき出しになっていて、歴代城主の甲冑や武具などが保管されているばかり。

それこそ、数いる武将の中でも実際に天守に住んだのは、安土城を築城した織田信長だけだといわれている。

「実は、日本で初めて天守がつくられたのは滋賀県大津市にあった坂本城。織田信長の命で、明智光秀が築いた城です。また、石垣を積んだ城の先駆けは、同じく滋賀県にある織田信長の安土城なんです。」

ちなみに、安土城の石垣を積んだ職人集団「穴太衆(あのうしゅう)」も、滋賀県が発祥。信長の穴太衆起用を目にした大名たちはこぞって、その技術を求め、現在、全国にある城の石垣のうち7~8割が穴太衆の手によるものだといわれている。もちろん彦根城の堅牢な石垣も穴太衆によるものだ。

こうした “日本初” が滋賀県にそろったのは、この土地に、築城に関する高い技術がそろっていたからだろう。つまり彦根城は城づくり発祥の地で脈々と受け継がれた技術の集大成ともいえるのかもしれない。


社交の場として使われた大名庭園「玄宮園」



彦根城には、「玄宮園(げんきゅうえん)」と呼ばれる豪華な大名庭園も現存している。広大な池を中心に、4つの島や9つの橋、鳳翔台(ほうしょうだい)と呼ばれる茶室などの建物が配置された、変化に富んだ回遊式庭園だ。江戸時代には歴代の藩主が客人を招いてお茶会を開くなど、半日から1日かけて食事や散策を楽しみながら参加者同士の社交が行われる場所だったそう。

春には桜が咲き誇り、秋には池に映り込む紅葉が格別。四季折々の風情が楽しめる庭園だ。


水田からわかる藩主の経営戦略



計算されつくされた庭園の中で異色の存在といえるのが、片隅につくられた田んぼだ。とはいえこの田んぼ、発掘調査をもとに復元されたものだそう。春になると大名は自分の庭園内にある水田に家臣を集め、五穀豊穣を祈る神事を行ったという記録が残されている。藩主自らが神事を仕切ることで領内のことをしっかり考えているということをアピールし、同時にその年の米のでき具合の目安にもしていたそうだ。

まさに現代社会における背中で魅せる上司像はこの頃から、変わらず存在していた。

「江戸時代になると戦がなくなります。そうなった時、大名がやるべきことの最優先は経営でした」と三尾さん。江戸時代には国政は幕府が、地方政治は各地の大名が運営していた。当時、藩の経営に必要な費用はすべて自主財源でまかなうこととされており、今のように国から補助金や地方交付税が出されることはなかったという。庭園内にある水田は、当時の大名庭園が遊びや社交の場としてだけでなく、政治的な演出や計画を行う場所であったことをよく表している。


安定と平和のシンボル、彦根城を世界遺産に



近年は、彦根城を世界遺産に登録しようという取り組みが地域を中心に行われている。「戦に備えてつくられた城ですが、実際に彦根城で戦が行われることは一度もありませんでした。約250年間にわたり、一度も大きな内戦が起きなかったのが江戸時代の素晴らしいところです。彦根城は、その250年間にわたる平和を維持する拠点となった城。これまでの時代の城と違い、安定をもたらす存在であったといえるでしょう。戦国時代のような“戦の砦”というイメージに加え、安定した社会を維持した存在であることを、みなさんに知っていただきたいと思っています」と三尾さんは語る。

大名や武士たちに戦うことをやめさせ、戦いのための拠点であった城を領地を治めるための拠点とし、国全体の安定が維持されたという政治の仕組みは、世界的に見ても江戸時代の日本にしか見られないものだそう。当時のままの姿を残す彦根城を訪れて、江戸時代の政治の仕組みや人々の暮らしに思いを馳せてみてはいかがだろう。


ACCESS

彦根城
滋賀県彦根市金亀町1-1
TEL 0749-22-2742
URL https://hikonecastle.com