色は鮮やか、手触りは柔らか「オリエンタルカーペット」

色は鮮やか、手触りは柔らか
「オリエンタルカーペット」

緞通の始まり

鍋島緞通などで知られる緞通という敷物。ほかにも、倉敷緞通や堺緞通といったものがあるが、山形にも歴史のある緞通がある。それを見るために、“山形緞通”の生みの親であるオリエンタルカーペットを訪ねた。
緞通というのは、基本的には絨毯と同じだと考えてもいいが、一般的に絨毯が長尺のものであるのに対し、緞通は短尺のものをさす。もちろんサイズはいろいろあるのだけれど、イメージとしては玄関のマットぐらいのものを想像してもらえればいいかもしれない。
もともとシルクロードを通って室町時代のころに中国から伝わったとされる。江戸時代になり、長崎で織りの技術を正式に学び鍋島緞通が生まれた。その後、全国にその技術は段々と広まっていった。
しかし、山形緞通についてはこうした歴史とは一線を画す。昭和10年頃、中国から技術者を呼び直接その技術指導を受けたことが始まりだという。

山形緞通の誕生

今から70年ほど前の1935年にオリエンタルカーペットは産声をあげる。その年は深刻な冷害がおきて、凶作となってしまった年だった。その煽りを受けて、人が身売りをするということまで起きたのだという。
「私の祖父が、その状況をなんとかしたいという思いで始めたのが日本での絨毯作りでした」と話を聞いた渡辺博明社長は話す。まずは女性が働ける場所を作りたいと思ったのだそうだ。そこで中国から先生を招き、絨毯製作を学んだ。そこで出来上がったのが“山形緞通”なのだ。
その当時つまり70年前の絨毯は、お話を伺う応接室の足元に敷かれていた。まるで新品のよう。手でそっと撫でてみると、ふわりと柔らかかった。管理を徹底して大事にとってあるのかと思いきや、10年に1度クリーニングをしているがあとはそのまま使っているだけなのだという。その事実に驚いてしまった。当時の技術がどれだけ徹底していたかがわかる。「手織りの絨毯なら100年以上使えますし、『堅牢染め』という染めの技法を使っているので、色あせることもほとんどありません」と渡辺さんは言う。


伝統技術と新しい試み

現在でも、手織りの絨毯作りも続けている。デザイン画にそって、毛糸を織り込んでいく。手間と時間がかかる作業だ。話を聞くと熟練の職人でも1日に7センチから8センチほど織り込むのがやっとだという。そうしてできあがるのが、あの一枚なのだ。
歴史と伝統のあるオリエンタルカーペットだが、もちろん技術革新にも余年がない。そのひとつが「マーセライズ」という独自の技術。最初、応接室を訪ねたときに入ったときに額縁に入った絵だと思っていたものが近づいてみると実は絨毯だったのだ。なかでも驚いてしまったのが、“絨毯の能面”。本当に繊細で、近寄って見るまではまるで本物にしか見えなかった。それを実現しているのがマーセライズだ。毛糸に風合いと艶を与える技術で、オリエンタルカーペットでは何と2万色以上もの色を再現できるのだという。最近は、地元出身のデザイナー奥山清行さんや、建築家の隈研吾さんとコラボレートして、現代的なグラフィック柄や、まるで苔の生えた庭のような絨毯も発表している。
生活様式が変わってきたことによって、絨毯、カーペット、緞通、それぞれ求められるものも変わってきている。それに対応しながら、新しい試みを行っていく。山形緞通の生みの親は、そんなふうにしてまた新たなものを生み出していっている。

ACCESS

オリエンタルカーペット株式会社
東村山郡山辺町大字山辺21番地
URL https://yamagatadantsu.co.jp/