山形に伝わる山形仏壇とは
良質な漆がとれることで、山形県の村山盆地は漆工業が盛んな土地だった。また、木材資源も豊富だったために木工業でも賑わっていた。その歴史のなかでいまでも残っている工芸品のひとつが山形仏壇だ。その特徴はけやき材を使ったほぞ組による頑丈な作りがまず挙げられる。それに加えて、精密な彫刻、奥行きのある宮殿も特徴だ。さらには、黒金具を使うことや、木目を活かした漆塗りによって、全体的に落ち着きのある温かな印象を与えてくれる。
起源は江戸中期の享保年間。星野吉兵衛という人物が江戸浅草に木彫りを学んだことに始まる。その技術を山形へ持ち帰り、欄干や仏具の製作を始めた。そこに漆の塗師や、蒔絵師、金工職人などが集まり、仏壇の製作を始めたというのが、山形仏壇の起源とされている。
指物も作る指物師でもある
こうした歴史もあり、もともと山形仏壇は分業の仕事だった。明治になって量産を始めるにあたっても、木地、宮殿彫刻、金具、塗、蒔絵、箔押し、仕組と七つの仕事に分かれた分業制をとった。お話を伺った齋藤義孝さんはそのうちの木地師だ。仏壇を形作る木を選定し、素地を整えていく職人。山形仏壇の特徴である美しい木目は木地師によって作られるのだ。
「でもね、人が少なくなって、小物屋さん(指物師)が少なくなってね」と齋藤さんは話す。そのため、現在では齋藤さんは木地師として活躍するとともに、指物師の仕事も行う。ちなみに指物師の仕事は、木材を組んでいく仕事。ときには、ものすごく細かい作業もあり熟練の技が必要になる。「ほんとは、木地師はつくるもんでないのよ。屋根だけの職人がいるのよ」と言いながら見せてくれた細工は本当に細かなものだった。
それでも「ごまかしは気に喰わない」と、仕事について語る。木地師に指物師、どちらとも専門の知識と特有の技などがあり、その両方をこなすというのがどれほど大変か容易に想像がつく。でも齋藤さんは「もちろん大変だけど、すごく楽しくもあるんですよ」と話していた。
木地師人生まだまだ
木地師で指物師というのにも驚いたが、齋藤さんは仏壇だけでなく神社のお仕事も請け負うことがあるのだという。神輿なども手掛けているのだ。その話が出たのは中田が宗派による違いを聞いたときだ。
もちろんお寺の宗派によって、仏壇には決まりごとがたくさんあり、その種類を覚えるのが重要であり、大変だと齋藤さんは答えてくれた。そのときに中田が「神社関係のものも作るんですか」というと、「ほかの人はほとんどやらないけど、私は作ることがある」と話してくれたのだ。お寺でも宗派でさまざまな違いがあるのだから、お寺と神社ではまた大きな違いがあるだろうと聞いてみてると、答えは「もちろん」。材質も造りも違うところがいっぱいあるのだという。それでも「今後は総けやきのお稲荷さんを作りたい」と、すごく楽しそうにその話をしてくれたのが印象的だった。「人生まだまだ。何かを覚えれば覚えるほど、難しくなっていくね」と山形仏壇の匠はしみじみと語ってくれた。