光を受けて柔らかく浮かび上がる曲線。まるで花がほころぶ瞬間や、しなやかに折り重なる布を思わせる質感に、思わず手を伸ばしたくなる。漆でつくる「思わず触りたくなるようなかたち」を探求する漆芸家、笹井史恵さんは、日々漆と語らいながら、まだ見ぬ新しいかたちを生み出している。
漆でつくる、触れたくなるかたち

京都府向日市にある自宅兼アトリエ。漆を乾燥させるための戸棚「漆室(うるしむろ)」には、不思議な存在感のある作品が並んでいる。風を含んだようなやわらかな膨らみや、たわわに実った果実のようにみずみずしいかたち。表面は光を受けてしっとりとした艶を帯び、思わず指先を近づけてみたくなる。
笹井さんが手がける漆の立体作品は、一度塗っただけで完成するものではない。漆を塗り重ね、そのたびに研ぎを入れることで、わずかな凹凸を整えながらムラなく均一な塗り面をつくっていく。さらに漆は温度と湿度を管理した空間でしか硬化しないため、乾燥を待つ時間も必要だ。その反復が何度も積み重なって、初めてこのなめらかな質感や柔らかなフォルムが立ち上がってくる。
「触ったときの感覚を想像しながら、塗りや形を決めていきます」というのが、笹井さんの制作スタイル。塗っては研ぎ、また塗り重ねるうちに漆の厚みがふくらみになり、研ぎの精度がなめらかさを生む。そうして少しずつ育てられる造形には、笹井さんが指先で確かめながら漆と向き合った時間が折り重なっている。
選んだのは「痩せない作品」

笹井さんが生まれ育ったのは、大阪府八尾市。下町育ちで父は会社員、母は専業主婦と、芸術に縁のある家庭ではなかったという。高校生のときに美術の道に惹かれ、京都の芸術大学に進学した。
「高校では絵を描いていたのですが、続けているうちに、自分は平面に向かうより手の内でかたちを作る方が向いてるんじゃないかな?と思うようになって。陶芸家はどうだろう?まずはやってみよう、という気持ちで芸術系の大学に飛び込みました」
大学に入ったら、まずは染織・陶芸・漆芸をひと通り体験。そのなかで笹井さんの心をとらえたのが、漆だった。「陶芸は焼くと縮んでしまうのが、ちょっと寂しかった」という笹井さん。逆に漆は、塗り重ねるほどにふっくらと肉付いていく。重ねるごとに表情が変わり、その変化を見ながらゆっくりとかたちを決めていけることに魅力を感じた。
誰も歩んでいない道を、自分の手で

こうして漆芸を選んだ笹井さんは、当初は工房で器をつくる未来を思い描いていた。しかし、実際に手を動かすうちに器づくりの枠を越え、自分の感覚に正直にかたちを追い求めるようになっていく。心のおもむくままに進んだ結果、行き着いたのは自分の好きなかたちを追求できる漆のオブジェだった。
当時はまだ、器や仏具をつくる“職人”として活動する人がほとんどだった漆芸の世界。だからこそ、あえてアートの領域に振り切れば、まだ誰も踏み入れていない新しい道を切り開けるのではないか――。そう考えたことが、アーティストへと舵を切り、自分だけの表現を模索し始める大きなきっかけとなった。
身近な自然や人との対話が、創作の源に

漆に出会って以来、笹井さんは一貫して「かたち」と向き合い続けてきた。その道のりは、自分の心に浮かぶ感覚をどうすれば漆に託せるかを探し続けてきた歩みでもある。笹井さんの作品づくりには、時間のかかる工程を楽しみ、美意識を貫く芯の強さがうかがえる。
日常の気づきが生んだ、ふっくらとした生命のかたち

笹井さんの代表作のひとつに「ビラブド」シリーズがある。丸みを帯びた柔らかなフォルムは、赤ん坊や子どもといった「ヒトがもっとも愛情を注がれる時期の姿」を連想させ、見る人の顔を思わずほころばせる。ふっくらとした輪郭が、「触りたくなるようなかたち」という笹井さんのテーマを端的に示している作品だ。

もうひとつの代表作「空のさかな」シリーズは、笹井さんの作品の特徴であるふくよかな丸みと稜線の重なりが美しく調和した作品だ。
こうした作品には共通して、日常のささやかな気づきや、身近な自然を見つめる笹井さんの好奇心が感じられる。子どもの肌のようなみずみずしさ、水面を泳ぐ魚のようなしなやかさ。そうした生命の姿が、漆特有の深みある質感で表現されているのが、笹井さんの作品の魅力だといえるだろう。
学生と過ごす時間が、創作のエネルギーになる

笹井さんは自身の制作活動と並行しながら、京都市立芸術大学で教授を務め、漆の立体作品づくりを学生に伝えてきた。大学で若い世代に接する時間は、自身にとっても大きな刺激になるという。「ずっと制作だけに打ち込んでいたら、行き詰まっていたかも。学生さんと接することでバランスが取れて、エネルギーをもらっています。」
若い世代との対話は発想をひらき、笹井さんの作品づくりをより豊かにしている。
コラボレーションで開かれた、新たな世界

異なる分野の作家たちと作品をつくる“コラボレーション”も、笹井さんにとって表現の幅を広げる大きなきっかけとなった。漆とはまったく違う素材や考え方に触れることで、新たな可能性が生まれているという。
竹工芸家・四代田辺竹雲斎さんとの共作「天日の舟」はその代表例だ。青漆を使い、エッジの効いた円形で海面に浮かぶ太陽を表現した笹井さんに対し、田辺さんはその青い輪に竹の束を編み重ね、海原に太陽の光が広がる瞬間が表現された。漆でつくるシャープなラインと竹の柔らかさが融合して、新しい工芸の魅力が生み出されている。

截金(きりかね)ガラス作家の山本茜さんとの共作「瑠璃のさかな」も、2人の作家の個性が融合した作品だ。「截金ガラス」とは、細い線状に切った金箔で模様を描き、それを溶かしたガラスの中に封じ込める山本茜さんオリジナルの技法。山本さんがつくるガラスの目に着想を得た笹井さんは、水面を跳ねるような鮮やかな青いさかなを誕生させた。
「いろんな工芸家の方とのコラボレーションを経て、ひとりで制作していたらたどり着けなかった世界が見えました。もちろん自分のためになるし、学生さんにも還元できるので、2倍にも3倍にも良い影響を生んでくれていると思っています」。さまざまな作家との共作は、笹井さん自身がいつの間にか作っていた“漆はこうあるべき”という無意識の思い込みをほどくきっかけにもなったという。
もっと自由に、もっと遠くへ。漆の可能性を信じて

笹井さんの作品は、美術館での展示、個展、さまざまな企画展などで展示されてきた。また、ザ・リッツ・カールトン京都では、館内のアートワークの一部として笹井さんの作品が常設展示されている。訪れた人が、宿泊や食事の時間の中で作品を目にすることができる、特別な空間だ。
近年では、2024年に開催した個展「風様ふわり、忽ちに雷様」での新しい挑戦が評価され、第75回芸術選奨美術部門 文部科学大臣新人賞を受賞した。さらに2025年夏にはアメリカで初めての個展を実現し、活動の舞台を大きく広げている。
「日本の工芸って、やっぱりクオリティが高いと思うんです。だからこそ、もっと多くの人に見てもらえる機会が増えたら、海外でももっと関心を持ってもらえるはず。実際に、海外の方が作品を見に来られることもありますし、可能性は大いにあると思っています」
2026年、イギリス・ロンドンにあるヴィクトリア&アルバート博物館では、日本の漆芸を紹介する展覧会が予定されており、笹井さんの作品も出品が決まっている。ひとりの作家として、日本の工芸を世界に伝える入り口に立つ。その意思と未来への期待が、笹井さんの言葉から確かに感じられた。
次はどんな出会いがあり、どんな表現が生まれるのか。そこから生まれる作品は、きっとまた私たちの心を揺さぶってくれるだろう。



