創造と挑戦の精神を大切に、​信じた味を追求し続ける「四ッ谷酒造」/大分県宇佐市

八幡宮の総本山、宇佐神宮でも有名な大分県宇佐市。山間部、盆地、平野と自然豊かな環境に囲まれた、古き良き漁師町に並ぶ酒蔵「四ッ谷酒造」。今や、国内でも入手困難とされる焼酎の一つである「兼八(かねはち)」は、どのようにして生まれたのか。そのルーツやこだわりを知るため、五代目を担う四ッ谷岳昭(よつやたかあき)さんのもとを訪ねた。

目次

四ッ谷酒造の歴史​​

四ッ谷酒造の創業は1919年。元々、魚市場の商人だった創業者「四ッ谷兼八」が私設の魚市場を数軒経営しながら、九州各県を巡る中で飲む焼酎の美味しさが忘れられず、副業として焼酎の免許を取得したことに始まる。現在、100年以上続く酒蔵を受け継ぐのは、五代目となる四ッ谷岳昭さん。祖父にあたる三代目が戦死したため、四代目となる父が高校卒業と同時に蔵へ。1975年頃から数年ほど焼酎ブームがきたものの長くは続かず、四代目は自分の代で蔵をたたむ覚悟もしていたという。

憧れていたサラリーマンから蔵人へ

そんな歴代続く酒蔵の息子として育った岳昭さんだが、その頃は家業に関心もなく大学も理学部の数学科に進学。生まれ育った漁師町では、あまり見ることのなかったサラリーマンに憧れがあったと当時を振り返る。卒業の頃、世の中はバブル絶頂期。松下電器(現パナソニック)のシステムエンジニアとして、順風満帆なサラリーマン生活をスタートした。数年後には海外担当となり、シンガポールやマレーシアを往復する日々。元々お酒を飲むことが好きだったが、飲み慣れた日本の酒ではなくバーボンやスコッチ、ワインなど洋酒にハマり、いろんな国のお酒を飲むのが楽しみだったという。

ターニングポイントは「いいちこ」

順調なサラリーマン生活だったが、仕事にやりがいを見出せずにいた頃。海外で滞在していたホテルの前の小さなウォルマートの酒売り場で見つけたのが、生まれ育った地元・宇佐の酒造メーカー「三和酒類」が手掛ける麦焼酎「いいちこ」だった。”30歳が人生のターニングポイントだ”という自分の中の勝手な想いと、いいちこを見て思い出したのは実家の焼酎蔵。「これだ、帰ろう!」と、ひらめきにも近い感覚があったという岳昭さん。それが帰郷を決意した瞬間だった。

帰郷と厳しい現実

帰郷したものの四ッ谷酒造の経営はギリギリの状態。従業員も製造石数も最小限だったという。酒造りの初心者である自分がやっていけるのかという不安は過ったが、とにかくまずは酒造りを覚えなくてはいけないという焦りの方が強かったと当時を振り返る。理論ではなく現場で学んできた父は、具体的な指導もなく仕事は現場で覚えろというタイプ。一方、理系でシステムエンジニアをやっていた岳昭さんは何事も理屈で覚える理論派。“職人の感覚”と言われても理解が難しく、一から自分で学んだという。右の左も分からない毎日だったが、岳昭さんは理系で学んできた本領を発揮。ストップウォッチを片手に、酒造りに関わる全ての工程の数値を出し、平均値を取りながら研究を重ねた。酒造りの概論は「本格焼酎製造技術」という本で学んだ。

”自分がおいしいと思う酒をつくりたい”

当時は、味も価格設定に関しても業界大手メーカーに追随していたので、価格も一律。また、大手と同じ減圧蒸留で造られた口当たり軽いタイプのものしか売れないという風潮もあったという。また、焼酎の原料となる大麦の国内自給率は数%しかなく、90%以上は輸入に頼っていた。それは二条大麦のみで、当時、四ッ谷酒造の主軸商品であった「宇佐むぎ」も二条麦を使用。ある程度の安定的な売り上げはあったが、岳昭さんは帰郷後1年ほどで、「今あるものじゃない、自分の好きな酒を造りたい」と、自分が求める味を考えるようになった。

そう気付かされたのは、仕事終わりに父と酒を酌み交わす時間だった。酒造りだけではなく、様々なことを語り合う中で当時主流だった飲みやすい焼酎ではなく、自分が好きだと思う香ばしく、奥深い味わいを造ることを決意した。「造るのはいいが、造ったものに自分で責任を取れ」という父からのメッセージを受け、試験的に造り始めたのが兼八の原点となる焼酎の始まりだった。

地元の麦を使い「兼八」にたどり着くまでの覚悟

そうして酒造りを始めた2000年当時。自分が求める味わいを求めていた岳昭さんが着目したのは、宇佐平野で減反政策の一環として、一部の田んぼに植えていた六条大麦、つまり裸麦(ハダカムギ)だ。大麦の中でも栄養成分も豊富で希少なこの麦が日本古来の品種であることと、どうせならこの麦を使って地元の農家さんを応援したいという想い。「この麦はおいしい焼酎になるんですよ」と伝えたい気持ちから、地元産の六条大麦を使うことを決めた。六条大麦は二条大麦と比べて粒が小さく、デンプン含有率が低い。つまり糖化が少なく、アルコール取得量が少ない上、作業効率も悪い。だから酒造りには嫌煙されてきた部分もあるが、岳昭さんが造りたかった強い香ばしさを追究するため、試験的に一度使うことを始めた。

麦の一粒一粒を大切にしたいという想いや味へのこだわりから、常圧蒸留機もオリジナルの仕様で作った。何度もトライアンドエラーを重ね、約2年の歳月をかけた酒は、これまで味わうことのなかった唯一無二の味となり完成。「不安がなかったと言えば嘘になる」と岳昭さん。これが売れなかったら自分には酒造りのセンスがないと諦め、転職すると決めた覚悟から四ッ谷酒造の創業者である四ッ谷兼八の名前を頂き、その酒を兼八と名付けた。この覚悟こそが、時代の流行りに流されず、“主流ではない焼酎造り”を貫いた証だった。

​​“幻の焼酎”と呼ばれる起点となった新聞記事

2002年、四ッ谷酒造に大きな転機が訪れる。当時はまだ「宇佐むぎ」の方が売れていたにもかかわらず、日経新聞のコーナー内にある「専門家が薦める焼酎」という回で、兼八が10位にランクインした。何も知らなかった岳昭さんにとっては青天の霹靂。中には、通常の焼酎とは味わいが違うという耳障りの悪い声も聞こえたが、その味わいを好む声が大きく上回り話題を呼んだ。これをきっかけに兼八の人気は跳ね上がると、全国から注文が殺到するようになった。飲む人によっては、”香ばしさ=焦げ臭さ”だという人もいるため、通常の酒蔵ではそのクセを抑え造ることが多いというが岳昭さんは違う。「香ばしさ全開でいきたかった。ただ、自分がこっちの方が好きなだけですよ。」と笑うが、その信念にも似たこだわりを追求した結果が、世の中に評価され、兼八の人気は不動のものとなった。

焼酎専用大麦「トヨノホシ」の開発

「兼八」がヒット商品となった後も、岳昭さんの挑戦は終わらない。大分県の酒造組合で生産技術委員会・委員長の経歴を持つ岳昭さんは、焼酎専用の大麦の開発も手掛けた。昔は輸入の二条大麦と言えば、俗称「ビール麦」。ビールメーカー主導で使われていたため、焼酎はビールで使っている麦を使ったものだというイメージが業界内でもあり、それが悔しかったという。その想いを胸に、地元の蔵元たちとプロジェクトを立ち上げ、完成したのが「トヨノホシ(豊の星)」という新品種の麦。自然豊かな宇佐市は温暖少雨な地域であることから、麦の栽培に適した町。そんな宇佐の地でゼロから育てたトヨノホシは、その土壌の影響を受け栄養価も高く、一般的な二条大麦に比べしっかりした甘味とコク深い風味が特徴だ。約10年の歳月をかけて誕生したトヨノホシを使い造られた酒は、どの蔵の酒であろうが商品名にトヨノホシと名前を付けブランド化している。当然、兼八にも、このトヨノホシを使った「兼八トヨノホシ」があり、酵母には大分県の名産である「カボス」から抽出した大分県独自酵母「焼酎用大分酵母」を使用。麦の香ばしさの中にある、カボスの酸味が後を引く味わいだ。

”斬新でトラディショナルな焼酎づくり”を目指す四ッ谷酒造はヒット商品に胡座をかくことなく、日夜新たな商品開発にも余念がない。だがそれは、「焼酎造りを突き詰めていきたい」という想いだけだと岳昭さんは笑顔を見せる。

日本、そして大分が誇る酒を世界へ

今や「SAKE」と言えば、海外では日本酒を意味し和食の世界的ブームに伴って、日本酒の輸出量も伸びている。しかしながら焼酎は、と言えばまだまだ下火。そもそも焼酎は蒸留酒のため、海外でも食中酒として蒸留酒を飲む習慣がない。今後はヨーロッパやアメリカ圏にどう伝えていくかが課題だと岳昭さんは言う。「シンガポールに暮らしていた時に、仲間たちに自分は日本に帰り焼酎を造るんだと話すと「焼酎」という言葉が通じませんでした。「SAKE」なら理解してもらえるのに、ウイスキーやジンのような味と説明しても通じず、悔しかったですね。」日本酒と同じくらい「焼酎」を世界共通言語にすることが岳昭さんの夢のひとつだ。

また、今後は次の世代の人たちが表現しやすいような種まきをしたいとも話す。原料や樽、酵母の研究をして、若き後輩たちがクリエイティブなことができる環境をつくりたいと岳昭さん。

”自分が最終表現者じゃなくていい。”

兼八を造った者としての自信と実績を胸に、四ッ谷酒造は次世代の酒造りの未来を切り拓いていく。

ACCESS

四ッ谷酒造有限会社
大分県宇佐市長洲4130
TEL 0978-38-0148
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