富士五湖の中で最も富士山に近く、景勝地として知られる山中湖で工房を構えるのは、陶芸作家の渡辺国夫(わたなべくにお)さん。伝統技法を用いた「磁器」の制作を一筋に続け、今や伝統工芸の世界に名を連ねる作家の一人となった。伝統的でありながらも個性が光る、渡辺さんの感性を突き動かす原点とは。
工芸の道を歩み続けて
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一言で陶芸といっても、「土もの」と呼ばれるように粘土の原料を土とする「陶器」と、岩石を原料とする「磁器」とに大別される。山梨県南都留郡山中湖村で工房を構える渡辺さんが制作するのは磁器で、色彩豊かな幾何学(きかがく)や市松模様(いちまつもよう)を施した作品が特徴的。焼成した上に絵具で色付けをする「色絵(いろえ)」、金・銀を粉末にして溶いた泥や箔で装飾を施す「金彩(きんさい)・銀彩(ぎんさい)」といった伝統的な技法を用いる。
渡辺さんは、これまでに国内最大級の工芸公募展と称される「日本伝統工芸展」において20回以上の入選を経験。日本伝統工芸展を主催し、伝統工芸の技術保存・伝統文化の向上を目的とする「公益社団法人日本工芸会」の正会員でもある。百貨店やギャラリーなどでの個展の他、作品は海外の美術館にも収蔵されたことも。
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「今思えば、手の中で考えて作り出すことがしたかったんでしょうね」
現在では日本工芸会の一員となった渡辺さんだが、工芸の道へ進むきっかけとなったのは、ある偶然の出来事だった。
ゼロからの出発
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山梨県富士吉田市出身で進学校の普通科に通っていた渡辺さんは、理系大学の受験に挑んだものの、結果は思うようにいかなかった。そこで当時相談のために向かった進路指導室で見かけたパンフレットで、美術予備校の存在を知ることに。「たった一冊のパンフレットで、僕の人生が変わったんです」。「美術大学に行きたい」という想いが湧き、美術予備校に通うことを決心。「デザイン・工芸専攻」を選択し、デッサンからものづくりまで幅広く美術の世界を学んでいくことになる。全くの未経験から始まった浪人生活だったが、「絵を描くこと、物を作るということがすごく楽しかった」と、当時を懐かしむ。手を動かす傍らで、自身の見聞を広げるために美術館や展覧会にも足を運び、漠然としていた興味が徐々に“工芸”に向かって行ったという。4年間の受験生活を経て、東京藝術大学工芸科に見事合格を果たした。
「工芸科」と一括りにしても染織や漆芸など専攻は様々。中でも大学1、2年次の間で一通りの専攻を体験した渡辺さんが最終的に決めたのが、陶芸だった。「窯に入れて焼くと、全く想像していないものが出来上がってくる。まるで自分の手の届かない所にあるように感じて、これは面白いなと思いました」。
“焼き物の地”で器を作り続けた10年間
在学中、陶芸をより突き詰めたいと考えるようになり、同大学大学院美術研究科陶芸専攻へ進学することを決意。大学院修了後は、愛知県瀬戸市にある瀬戸窯業(ようぎょう)高等学校(現 瀬戸工科高等学校)で、セラミック科の教員として赴任した。瀬戸市は「瀬戸焼(せとやき)」で知られる“焼き物の地”であることから、制作活動を続けるにも最適の環境であった。更に多くの陶芸作家が瀬戸市で活動しており、中でも織部焼の名匠である加藤作助(かとうさくすけ)氏が、この地を窯元としていたのは有名な話だ。渡辺さんは大学の教員に勧められ、当時愛知県立芸術大学の教授を務めていた加藤氏の元へ、真っ先に挨拶へ向かった。そうした縁もあり、後に渡辺さんは愛知芸大出身の同世代の作家達とグループ展を催していくことになる。
「陶芸は器が基本、とにかく器を作りなさい。それが作助先生の教えでした」
その教えに則り、学校に勤めながら展覧会に向けて日々制作に励んだ。環境や人との繋がりに恵まれ「充実した10年間を過ごした」と渡辺さんは当時を振り返る。独立を決めてからは故郷の山梨に戻り、現在の工房を構えることとなった。
色彩が織りなす文様の制作過程
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渡辺さんの作る器に見られる多彩な色使いや模様は、マスキングテープを用いた技法で生み出されている。マスキングテープを貼り、器体の形に合わせた模様を切り抜いて、色を乗せて剥がしては焼く、という工程を5、6回程度繰り返すのだという。色は一度に厚く重ねると剥離や縮れを起こすため、薄く何度も重ねる必要があるそうだ。辛抱強く行う作業となるが、「あと2回、1回となってくると出来上がりが楽しみでワクワクしてくるんです」と、その魅力を語る。途中段階は色を定着させることを目的に低温で焼き、「色絵」技法の仕上げとしてガラス化させるため、最終的には約800度まで温度を上げて焼き付けていく。このように全ての工程に丹念な手間暇が掛けられて、ようやく絶妙な色味や緻密な文様が完成する。
憧れから自分らしさへ
現在の作風に至るきっかけとなったのは大学で陶芸を専攻した当初に、陶芸家・前田正博(まえだまさひろ)氏の作品と出会ったことだった。前田氏のマスキング技法を駆使し、絵具を何層も重ねる技法や、「ふくろう」をはじめとする動植物をモチーフにした絵柄など、当時の工芸界に革新を与えた作品は数多く、「焼き物でこんなにも鮮やかな色が出せるのか」と、カルチャーショックを受けたという。手探りで技法を試しながら技術を磨いていく過程で、「前田さんの作品でみるような絵柄は描けないから、自分が作っていて楽しいと思うことをやっていこう」と、自分なりに編み出した幾何学柄の表現が生まれていった。前田氏に作品が似ていると言われたこともあったそうだが、「技術を身に付けていく中で、自分でも意識をしない間に段々と“渡辺のカラー”になってきたと言ってもらえるようになりました。試行錯誤する中で、前田さんの作品に対する憧れから離れ、徐々に自分のスタイルとして自覚ができるようになっていったのかもしれません」と、嬉しそうな笑顔を浮かべる。
新たな“色”
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これまで、「自分が作りたいものを作ってきた」と渡辺さん。器においても、食事との相性を考えた色合いというよりは、色彩を主役に仕立てた作品の印象が強い。しかしながら最近は、“白”にも魅力を感じるようになってきたそう。白を基調に模様を施したり、光の角度で輝き方に変化をつける、「ラスター彩」と呼ばれる技法を用いたりと、新たな表現に踏み込み始めた。「白は色が乗せやすく、安定感がある。少しずつ良さがわかってきました」。
感性の根源とは
展覧会に向けて制作に打ち込む一方で、時間に追われてしまい自身を模索する余裕がなくなっていることに、引っかかりを感じるという渡辺さん。ふと、浪人時代に休みが来るたびに足繫く展覧会へと通っていた頃を思い出す。「展示を見ては自分の感想を書き残していたんです」。浪人時代に抱いていた工芸に対する純粋な熱意が、自分の感性を磨いていたのではないか、あらためてそんな想いが湧き起こる。
「やりたいことはいっぱいあります。だからこそ時間を作って取り組んでいかなければいけないと思います」
現在はろくろを用いた制作が基本となっているが、積極的に造形へ変化を加えていきたいという。「手びねりや土物も試してみようと思っていた時もありました。手を出せずにいましたが、時間はかかってもいろんなことに挑戦する必要はあると感じています」。新たな可能性にも目を向けながら、伝統工芸というものに縛られず、自分の持つ造形力と表現力を活かせる物を作っていきたいと、今後の展望について語る。
実用品ではなく、“作品”としての器を
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山中湖で工房を構えてから19年が経った今、これからの方向性として「実用性だけではなく、より“作品”としてのクオリティを追求していきたい」と意気込む。安定した収入を得る反面、仕事と自身の制作に多忙を極めていた教員時代と、独立を決意した当時の気持ちを振り返り、「“自分が作りたいものを作る”」ことに、改めて重きを置きたいと、強い決意を表情に滲ませた。自身の中に秘められている、未だ生み出されていない新たな“作品”の可能性。それを見つけるために、陶芸家・渡辺国夫は今日も感性を磨き続けている。