里山の原風景が残る町、栃木県芳賀(はが)郡益子町(ましこまち)。この町で作陶に励む陶芸家の田代倫章(としふみ)さん。さまざまな独自の技法を用いて、シンプルでありながら独特な質感と深みのある器を生み出している。
縁に導かれるように陶芸の道へ

栃木県南東部に位置する「益子町」。益子焼の名産地として名を馳せ、春と秋に開催される陶器市には、陶器を求める一般客だけでなく、陶芸をはじめとした“ものづくり”を手掛ける作家たちも多く集まる。
そんな益子町に2007年から工房を構えている田代さん。生まれは宮崎県だと言う田代さんが益子町で陶芸家になった背景には、いくつか偶然の重なりがあった。
きっかけは廃部寸前の部活への勧誘
出身は宮崎県だが父が転勤族だったため、大学に入るまでは沖縄や函館、大阪など全国各地で過ごしたという田代さん。
陶芸との出会いは高校時代。当時大阪の高校に通っていた際に友人から部員不足で廃部寸前の陶芸部に誘われたのがきっかけだそう。
「手先は器用だったので向いているかな?と最初は思いました」と当時を振り返る田代さんだが、それから陶芸に惹かれ、大学は奈良芸術短期大学へと進むことになった。
卒業後は製陶所などへの就職も検討したが、その当時2002年ごろは就職氷河期で、製陶所への就職も厳しく、だからといって急に独立して食べていける自信もない。弟子入りを選択肢に入れるべきか悩んでいたところ、父からの「やれるところまでやってみろ。」という言葉と、同級生からの何気ない「合っていると思う。」というふたつの言葉に背中を押され、益子町の陶芸家・今成誠一氏に弟子入りすることにした。
外からの人を受け入れやすい益子の空気

「益子を選んだのは、日本の焼き物の中でも比較的歴史が浅く、県外の人でも受け入れてもらいやすい風土がありそうと考えたから」と田代さん。
江戸時代末期に大塚啓三郎が窯を開いたことから始まったとされる益子焼の歴史は170年ほどで、備前や美濃、有田など何百年もの歴史を持つ地域と比べては確かに歴史が短い。また首都圏へのアクセスも良好でありながら、自然豊かな地域とあって移住がしやすい地域。陶芸家だけでなく、東京などから移り住んだ人が営むパン屋やカフェなどもあり、そういった人たちも益子の良さを語る際には「外からの人を自然に受け入れる風土がある」ということを挙げる人が多い。

また、師匠の今成氏の「感性を磨け」という考え方は、大学で教わった先生の方針や、何より田代さん自身のやりたいことと共通する部分も多かった。
約5年住み込みで働き、特にろくろの扱い方、窯の焚き方などはその時期に習得した部分が大きい。また、土の入手先、作品をどこに卸すかなど「陶芸家」の仕事についても学んだ期間だったそう。
手間も時間もかかるが、目指す焼き物に仕上げるために必要な工程

修行期間を経て、独立を意識しはじめ、関西に戻る事も考えているときに、たまたま現在の工房が見つかったため、益子で独立することにした田代さん。2007年のことだった。
田代さんは、電動ろくろで成形し、手回しろくろで器を仕上げる。電動ろくろも回転速度の調整ができるため、最初は高速や中速、仕上げでは低速にするなど、最初から最後まで電動ろくろを使う陶芸家も多い。しかし、この仕上げを手回しろくろで行うのが、田代さんのこだわり。
「電動ロクロだと、ゆっくり回しても規則的になってしまい、自分の作る器の形だとどうしても冷たい印象になってしまいます。手回しろくろなら時間はかかりますが少し回転が変則的になるので、温かみを持たせる事ができます。」
また田代さんの作る器は、薄づくりで繊細なフォルムのものが主。しかし益子の土は砂気が多く粘性が少なく割れやすい性質があり、そのため「益子焼」は厚みがある見た目のものが多い。そこで田代さんは、益子の土に他の産地の土を混ぜることで、自らの作品に適した粘土を作っている。
「シンプルでありながら質感を重視した『表情豊かな』器作りを心がけています。ただ、あくまでも器は道具で、食材が主役だと思っているので、その器に食材を盛り付けた時にどう映るかに重きを置いています。器自体の主張は控えめにする事。収納のしやすさ。結果、長く付き合って飽きのこないモノになると思います。」と田代さんは話す。
素焼きをせずに釉薬をかける「生掛け」

「表情豊かで柔らかい質感を出したい」という田代さんは、焼き方にもこだわる。
一般的な陶器の作り方は、土で器の形を作り、乾燥させてから、一度低温で焼く。これを「素焼き」と呼び、素焼きのあとに釉薬をかけ、その後「本焼き」をして色をつけていく(素焼きの後に色を付ける下絵付けという技法もある)。素焼きをすることで、器の強度が高まり吸水性も上がるので、液状の釉薬をかけた際にも器が崩れることはなく、生地に釉薬を密着させることができる。
しかし田代さんは、この素焼きをせず、「生掛け」と呼ばれる器が半乾きの状態で釉薬をかけて、本焼きをする手法を取っている。
しかし、薄いフォルムでしかも、半乾き状態の土で作られた器の強度は低い。そこに液体の釉薬をかければ、形が崩れやすいのも当然だ。また、形を崩さずに釉薬をかけても、その後で問題が起こりやすい。器そのものの土には水分が含まれているので、乾燥、焼成で水分が蒸発し収縮する。しかしその時点で釉薬はさほど収縮しないため、生地から剥離しやすくなってしまう。素焼きをしていれば、吸水性のある状態(乾いた土の器)に液体(釉薬)をかけることになるので、水分を吸い込み、収縮率もほぼ同じなので器と釉薬の密着度は高まるのだが、田代さんあえてそれをしない。
「特殊なことをやっていたので、独立して3年くらいは全然うまくいかなくて…。住み込みで修行していた期間よりずっと辛かったですね」と田代さん。

なぜわざわざ、そのような難易度の高い手法を選んだのか。
それは田代さんが師事していた今成氏にあった。もともと陶芸家としての今成氏のルーツは、岡山県の備前焼。備前焼は、素焼きをせず、釉薬もかけずに、高温で長時間焼くのが特徴で、今成氏の元で学んだ田代さんも、この「焼締め」と呼ばれる技法をメインで修行した。その過程で師匠が時折行っていた「生掛け」の技法にも注目。他とは違った自分らしい作風を目指したいという気持ちもあり、独自の表現の幅が広がると考え、焼締めに加えて「生掛け」を積極的に取り入れ始めたのが苦労の始まりだったのだ。
土の配合や釉薬の種類、その濃さや厚み、何度も失敗を繰り返しながら、それぞれの配合を試行錯誤。釉薬を器の内側だけに施す手法をベースにしながら、田代さんの理想の器のフォルムや質感を追求していった。内側だけ釉を施すことで形状を保ち、外側は柔らかな土の質感としている。微調整を重ねながら、現在では外側に刷毛で土を塗り、内側にはコンプレッサーで釉薬を付け足すなど行いながら、田代さんが思い描く「表情豊かな質感」を生み出している。
刷毛で塗ったり、コンプレッサーで吹き付けたりするのは時間と手間がかかる。薄づくりにすると歪みやすいリスクもある。それでも、その手間ひまを乗り越えた先にある仕上がりの質感や風合いの変化を田代さん自身が楽しみながら、目指す器を形にするため日々試行錯誤を重ねている。
その技法に名前があるのか尋ねると「名前は決めていないですね。一発焼きみたいなもので…」と微笑む。
華奢なフォルムに素朴な土の質感。そして均一化された製品には見られることのない、釉薬の濃淡や流れ方。一見シンプルなようでいて、細部まで手をかけ尽くした田代さんの技術と思いを感じずにはいられない。
新たなチャレンジも視野に、価値を感じてもらえるものを作る

毎年春と秋に開催される「益子陶器市」にも欠かさず出店している、個展や企画展などの活動も多く、着実に器のファンを増やし続ける田代さん。
今後の展望について尋ねると「昨今の資材等の値上がりから苦労する部分もあります。ただその中でも如何に自分ならではの感性・技術で表現し続け、価値を感じてもらえるものを作ったいけたらと思います。」とのこと。
現在の工房では、妻の鈴木宏美さんも、陶芸家として活動している。お互いに気に入っているこの益子の地で活動を続けたいという。
2022年には「茨城県陶芸美術館」に器と花器(かき)が収蔵された。県内外のフレンチや洋食店でも、田代さんの器を使いたいという依頼もある。
そうしたきっかけから、宇都宮市内のフレンチレストランをはじめ、洋食店などとの付き合いも増えてきた。「“特別な食事をする場所”で自分の器が使ってもらえることは大変うれしい」と話す田代さん。レストランとの打ち合わせや納品で現場に赴いた際、その場所から受ける刺激やインスピレーションは現在の制作コンセプトにも活かされ、試行錯誤の末にたどり着いた器たちは、確実に人の心を魅了するものへとなっている。
これからは器だけでなく、大学生のときに学んでいたオブジェやインテリア関係など造形的な作品を手掛け、自分の幅を広げていきたいという田代さん。新たな展開にも期待が高まる。



