九州には数々の個性豊かな焼物の里が存在するが、近年は場所にとらわれず、自らの想う場所で、独自の作品づくりに向き合う作家も増えている。シンプルなフォルムの中に、土の個性を生かした表情豊かなうつわを手がける「キタ陶房」の北岡幸士さんもそのひとりだ。
何者かになるために
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福岡市南西部、標高597mの油山・西側山裾に「キタ陶房」はある。元々は北岡さんの父・秀雄さんが作陶を行っていた場所だったが、秀雄さんが佐賀に新たな工房を設けたことから、現在は幸士さんがここの主だ。敷地内のギャラリーには2人の作品が展示され、特に北岡さんの作品は、初期のものから最新作までが並び、作風の軌跡を見ることができる。
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子どもの頃から父のそばで粘土を触っていたという北岡さん。しかし陶芸の道を勧められた記憶はなく、大学卒業後は語学留学のために渡英。飲食店などでも働いた。しかし2年後に帰国すると、陶芸の道へ。「ロンドンにいるときに出会った人や、まわりにいた人たちの多くは何かのプロ、もしくは何かのプロになろうとしている人たちでした。じゃあ自分は、と考えたときにものを作る仕事がしてみたいと思いました」。
父からの勧めもあり入学した有田窯業大学校は、陶芸についてひと通り学ぶことができ、さらに深掘りもできるカリキュラムが魅力的な学校だった。卒業後は、さらに見識を広げるべく、焼き物の中心地である愛知県瀬戸市、その後は先輩作家の下で学ばせてもらうために岐阜県土岐市へ。現地では土地によってろくろの周る方向や土を練る方向が異なる文化の違いにも触れた。またその頃、瀬戸や多治見では電気窯で新しいものを作る作家が増えており、これに刺激を受けた北岡さんも「自分もこの方向でやってみよう」と地元である福岡で独立することに決めた。31歳の時だ。
作風を模索する日々
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北岡さんが作る器は初期から一貫して「用途のある器」だ。「日常に使うことができる皿や器など、現代の生活者に寄り添うもの。もうひとつ望むなら、文化的なバックグランドを超越できるものを作れたらと考えていました」。独立当初は日々「普遍的ないいうつわとは」について考え、その結果、「シンプルなものを成立させるためにはさまざまなことをやってみること」と仮説を立てた。テクニックや材料への理解を深めるために、同じ九州の代表的な産地である有田や唐津の陶土をはじめ色んな粘土・材料を試験しながら器を作る。その工程の中で自分なりの解釈を加え、さらにアウトプットを続ける。そうすることで北岡流のシンプルを極めていったのだ。
狙うものと、予想を超えるもの
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独立した当初は、透明釉を基礎に、添加剤や酸化金属を足した“白い器”をメインに制作。しかし北岡さんは、作品にもう少し強い表情を加えられたらと感じていた。
また電気窯でも面白いものを作るには、と考えていくうち、鉄分を含む色の強い土を使うとユニークな反応が現れることに気づく。そうして試行錯誤を重ねて安定したクオリティで電気窯で作品を焼成していった。しかし、化学的に厳密にコントロールされた作品を安定して作り続けていくうちに、それと全く違う考え方、対極のアイデアで生み出される焼き物を作ってみよう、と考えるようになった。そこで、ある時ストーブから出た灰を取っておき、長石と混ぜて灰釉を作ったところ、思いがけぬ成果が現れたのだ。
「いい陰影が生まれるんです。それもパッと見でわかるものじゃなく、使っているうちに気づくような陰影。作っていて面白いなって」。試行錯誤の中では莫大な失敗も重ねてきた。それでも、思わぬ良作が生まれると喜びは大きかった。
世の中がコロナ期に突入し、イベントなどが全てストップしてしまった時期も、北岡さんはこれ好機と、ゼロベースで灰釉に向き合い始めた。同じ長石でもメーカーが違えばどうなるか、焼き方によってどんな変化が現れるのか、あらゆる方向から手法を探り、次第に表情豊かな作品を生み出せるようになっていった。
クラフトフェアから広がった世界
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作品を発表するにあたり、北岡さんが積極的に活用してきたのがクラフトフェアだ。作家として最初に出品したのが「有田陶器市」。場所はメイン通りから1本入った家の庭で、窯業大学校の卒業生に賃料を抑えて提供してくれる場所だった。
「参加することでイベントの仕組みを知ることもできたし、他のフェアにも興味が湧き、片っ端から参加するようになりました。今は参加できる機会は限られていますが、普段会えない遠くの作り手やお客さまに会えて刺激になります。タイミングが合えば参加したいですね」。
個性の生まれるところ
イベントに出展することで名前を知ってもらえる機会が増え、ギャラリーやショップなどとのつながりも増えていった。Instagramなどのプラットフォームも、作品を国内外にPRし続けてくれる心強いツールだ。「そんなに積極的に発信する方ではなくて、展示のお知らせぐらいしか投稿してないんですけど、それでもその投稿とそこに写っている僕の作品を色んな人が、ときには海外の人もそれを見て興味を持ってくれたりするってありがたいことだなと思います。その点は父の世代の作り手の人たちより現在活動している僕たちは恵まれているなと感じます。」と北岡さん。作品が全世界に発信されることにより、コピーされる可能性も高まるのでは?という質問には、「マネのしようがないくらい普通なので大丈夫です」と笑う。「形に関しては、本当特殊なことは何もしてなくて。質の良いものは、形、成形、焼きの組み合わせでこそ生まれるものだと思っていて、他の多くの作り手の人たちもそうだと思うんですが、その全てのプロセスにそれまでの自分なりの試行錯誤や工夫、小さな積み重ねがあって、それを掛け合わせて出来る焼きものは、“似たもの”はできても“同じもの”はできないと思っています」。
個性についても同様。個性=人間性、たとえ消そうとしても癖は出る。指紋や文字が鑑定できるように、その人自身から滲み出るものなのだ。
トライアンドエラーの先に目指すもの
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現在はアメリカやヨーロッパからも注文を受け、上海のギャラリーより個展の依頼が寄せられるなど、着実に陶芸家としてのキャリアを積む北岡さん。課題について聞くと、「生産力」という答えが返ってきた。ただし釉薬がけも成形も、できることなら自らで手がけたい北岡さんにとって、それは永遠のジレンマだ。
しかしチャレンジ精神は衰えない。幅を増やしたい、もっといいものを作りたいという思いは、キャリアを重ねれば重ねるほど募る。「これまで散々、トライアンドエラーをやってきたつもりですが、まだまだ足りないと思っています。失敗すると凹みますが、キース・リチャーズも言っていたんです。『時には思い切らないと結果を得られない』と。彼も奏法を変えた時に、新しい世界に出会ったということなので、僕も常にトライして新しい世界を探しに出かけたいと思っています。
旅先はいつも目の前に
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今、北岡さんが抱いているささやかな夢は、かつて暮らしていたロンドンで個展を催すことだ。もちろん自ら在廊し、開催する個展だ。思えば陶芸家を志した頃は、「作品を作りながらいろんなところを旅したい」と考えていたという。しかし陶芸は手間と時間がかかる仕事だ。「旅に出たいとどこかで思っていても、ほんのわずかな移動時間にさえ、次の窯のこと、作業工程のことを考えてしまうんです。もはや家にいる方が落ち着いて」。ただ物理的な移動はせずとも、土と日々向き合いながら制作の作業、焼成の工程を重ねるうちに、それまで気付かなかったことに気付いて「そういうことか」という発見に出会ったり、今まで見えなかったものが「見えた」と感じる感覚を経験するようになったという。「旅の醍醐味は、見て感じること。僕は今、器作りの工程の中で視点の移動をしながら、新しい感覚を体験している気がします」。
まだ、旅の途中。土や灰、空気や温度の中に、どんな風景が待っているのだろう。シンプルな佇まいの奥に、様々な想像を掻き立ててくれるヒントを秘めた器の誕生を、今後も見守っていきたい。