醤油は、長い年月にわたって受け継がれてきた伝統産業である。日本の食文化に欠かせない醤油の魅力を発信することを自らの使命と捉え、これまでに400を超える全国各地の醤油蔵を訪ね歩いている人物がいる。「職人醤油」ブランドを展開する(株)伝統デザイン工房代表の高橋万太郎さんだ。
選りすぐりの醤油を扱うセレクトショップ
職人醤油は高橋さんの生まれ育った群馬県前橋市に本店を構える。県庁所在地としても知られる前橋市は、関東平野の最北端に位置し、赤城山の雄大な自然と利根川の豊かな水に育まれ、街と自然が調和する中核都市である。閑静な住宅街に建つマンションの1階に、ひときわ異彩を放つ店舗が所在する。醤油蔵を模した重厚感のある板張りの外壁に覆われ、そこに掲げたグラフィカルなロゴマークが目印だ。
店内に足を踏み入れれば、壁面を埋め尽くすように色とりどりのラベルをまとった種類豊富な醤油の小瓶がずらりと並んでいる。高橋さんが全国各地の醤油蔵を訪問してセレクトした、約100種類に及ぶ銘柄を取りそろえているという。ここでは数ある醤油の中から料理との組み合わせを提案したり、テイスティングも行っている。まさに醤油に特化した専門店、他では類を見ない醤油のセレクトショップである。
伝統産業や地域産業に光を当てたい
「漠然と何か事業を起こしたいと考えていました」。高橋さんは大学卒業後、精密光学機器メーカーに就職し、3年間の営業経験を積んだのちに会社を辞めた。とはいえ具体的なプランは特になく、あるのは胸に抱き続けた起業への熱い思い。高橋さんはやりたいことを見つけるために日本全国を回る旅に出た。
メーカーで培った営業力を頼りに自分に何ができるのかを探るうち、ものづくりに自信と誇りを持ちながらも発信力に乏しい伝統産業や地域産業の実態を垣間見ることに。「自分のやるべきことはここにあるんじゃないか」と、気づきを得た高橋さん。数ある伝統産業の中からより身近な存在で、なおかつ「選んで買う」ということがなされていないものにターゲットを絞っていくうち、最終的にたどりついたのが奥深い醤油の世界だった。
こうして日本全国の醤油蔵を訪ね、蔵元と触れ合い、学びを深めていく日々が始まった。蔵元に共通しているのは「いいものを造っている。でも売れない」ということ。厳選した材料で丁寧に造っていても「毎日使うものだから高くはできない」と、量産品と変わらない価格で販売している。小さな蔵では生産量の少なさから大手の流通に乗せられないという事情もあった。消費者に知ってもらうところまでには到底手が回っていない醤油業界の問題点が見えてきた。
ミニボトルに特化するという発想
醤油はすべて100ミリリットルの小瓶に統一し、蔵元独自のラベルを貼って販売している。これが職人醤油のオリジナルサイズ。このアイデアは高橋さん自身が店に並んだ醤油を買う時に実感した“選びづらさ”がヒントになったという。一般的な1リットル瓶では、試しに買ってみるのにはかなり勇気のいるサイズ感。結局いつもと同じものを選んでしまう。小瓶ならば気軽に手に取りやすく、同時に数本購入して味比べができる。「気に入った醤油が見つかったら、蔵元から直接購入するようにお伝えしています」と高橋さん。
始まりは「おもしろい」と、小瓶の販売に快く賛同してくれた少数の醤油蔵から。その数を徐々に増やしていきながら、今では全国の蔵から100銘柄を取り扱うまでになった。インターネット販売からスタートした職人醤油は、こうして新しい販売スタイルを確立していき、前橋市の本店に続いて東京の銀座松屋での店舗販売、百貨店やスーパー、雑貨店への卸販売など着実に販路を広げている。
毎日使うのに意外と知らない醤油
ところで、日本人であればどこの家庭にでも醤油は必ずあるだろう。誰もが当たり前のように調理や食事に使用しているおなじみの調味料だ。スーパーに買い物に行けば簡単に手に入り、そろそろ1本が終わりそうになると、迷うことなく今までと同じものをまた1本買い足す。そんな家庭が多いのではないだろうか。
改めて「醤油とはいったいどのようなものか」と問いかけられると、毎日使うわりには醤油のことを意外にも知らないことに気づかされる。日本の食文化を支える調味料でありながら、一般ユーザーの醤油に対する知識は残念ながら乏しい。「醤油は醤油でしかなく、あまり意識せずに使っているのでしょうね。ましてや食材によって使い分けるなんて考えたこともないかもしれません」と高橋さん。
日本一の醤油の産地は千葉県
まずは醤油の産地をご存じだろうか。全国には約1,100社近くの醤油メーカーがあるという。出荷量を都道府県別で比較すると、キッコーマン、ヤマサ醤油、ヒゲタ醤油といった大手メーカー3社の集まる千葉県が断トツのトップ。そして第2位には兵庫県が名を連ねる。この2県だけで50%以上のシェアを占めている。それ以降は僅差で3位に職人醤油が本拠地を置く群馬県、4位は愛知県、5位に香川県と続く。
おもな醤油の原材料とは
醤油の基本となる原料は、おもに大豆・小麦・塩の3種類。そして麹菌や乳酸菌、酵母菌といった微生物が、目には見えないが重要な役割を果たしている。醤油特有の芳醇な香りやうまみは微生物による発酵が決め手となり、半年から長いものではじっくり2年、3年かけてつくられる発酵調味料だ。たとえ同じ原材料で仕込んでも、醤油メーカーによって微生物の生態系はそれぞれ異なる。そのため同じ味にはならないところに醤油づくりのおもしろさがあるようだ。
醤油は5種類に分けられ、地域性が深く関わる
JAS規格(日本農林規格)によれば、醤油は濃口、淡口、再仕込、溜(たまり)、白の5種類に分類される。その中でごく一般的なのが濃口醤油。全体の流通量の約8割がこのタイプだという。
また醤油には地域性が存在する。それには日本の食文化に欠かせないだしの存在が、その土地の醤油造りに少なからず影響を与えているようだ。昆布だしがベースの西日本では調理には淡口醤油を使い、かつおだしがベースの東日本では万能タイプの濃口醤油が主流というように。
醤油の塩加減にも地域の特徴が現れる。九州や日本海側など海沿いの地域では、うま味成分のアミノ酸液と甘味料を加えた甘口醤油が好まれ、新鮮な魚に甘くとろみのある醤油をつける。いっぽう内陸では塩味の強い醤油が好まれる傾向があるという。
さらに中部地方は日本酒やみりん、酢、味噌など多様な発酵食品が集まる地域。熟成期間が長くうま味が凝縮された濃厚な溜醤油のみならず、短い熟成で色が淡くあっさりした白醤油という両極端な醤油が共存している。
醤油を使い分けると食の世界が広がる
高橋さんいわく、「同じ醤油ばかり使っていてはちょっともったいない。料理や食材によって醤油を使い分ければ、もっとおいしく、もっと楽しくなります」。職人醤油では、JAS規格の5種類のほかに甘口醤油を加え、独自に6種類に分類して使い分けを紹介。熟成期間の短いものから白、淡口、甘口、濃口、再仕込、溜の順に並ぶ。これらを3つのタイプに大別すると特徴を理解しやすいという。
まず、半年から一年と熟成期間の短い白と淡口は、色が淡く塩分が高めで素材の風味が生きる。次に甘口と濃口は素材に合わせやすく調理によし、かけてもよしと万能(ただし甘口は好みが分かれる)。
残る再仕込と溜は熟成期間が2年から3年と長く個性的だ。一度搾った醤油をそのまま仕込み水代わりに用い、“醤油で醤油を仕込む”再仕込と、大豆の割合が多く仕込み水の少ない溜は、色も味わいも濃厚でうま味が豊富。ソースのように使えて素材との一体感が楽しめる。
醤油はワインによく似ている
「よくお客さまから『お刺身に合う醤油はどれ?』という質問をいただきますが、お刺身でも赤身の魚と白身の魚では、相性のいい醤油が違うんです」と高橋さんは語る。「白醤油と淡口醤油が白ワイン系、再仕込醬油と溜醤油は赤ワイン系をイメージしていただくと分かりやすいでしょう」。白身魚にはすっきりとした白ワイン、赤身の肉には濃厚な赤ワインなど、ワインにペアリングがあるように、醤油にも食材との相性があるというわけだ。料理や素材によって醤油を使い分けることで、楽しみの幅はさらに広がっていく。
料理を引き立てる一本が見つかる
醤油をもっと直感的に選べるように、こんな工夫もしている。それは「大好物醤油」と名付けられ、高橋さんがセレクトした全国の醤油と相性のいい食べ物を組み合わせて提案するというもの。料理のイラストが描かれたパッケージを瓶のラベルの上にかぶせてあるから一目瞭然だ。刺身、卵かけご飯、とんかつ、目玉焼き、トーストなどラインナップは24種類。親しみやすいイラストと好きな食べ物への関心から気軽さ、手軽さが優先され、醤油選びのハードルを下げることに成功している。
職人醤油の目指す醤油の未来像とは
高橋さんが醤油の世界に飛び込んだころ約1,600社あったという醤油メーカーは、現在1,100社を下回り、醤油の生産量も下降線をたどっている。木桶で造る醤油は全生産量のわずか1%ほど。そんな中でも職人醤油で扱う醤油の約6割は木桶仕込みだという。
高橋さんが木桶にこだわるのは、桶にすみついた微生物が発酵の過程で独自の味わいを醤油にもたらすから。その蔵の持つ特徴を反映した個性的な醤油ができあがる。それは裏を返せば、醤油造りに対する蔵の姿勢がそのまま現れるということ。仕上がりにブレが出やすい木桶仕込みは、きちんと管理をしないと醤油の品質を落としてしまうことにもなりかねない。
「大手メーカーが工場で大量生産する商品も、小さな醤油蔵が手づくりしている醤油もそれぞれ一長一短あると思っています。大手さんの素晴らしいところは常に品質が安定していること。逆に小さな蔵では品質の振り幅が大きい。でも、そこがおもしろいと感じていて」。試行錯誤を繰り返す造り手の苦労話にも高橋さんは価値を見いだしている。
味も香りも蔵の個性が出る木桶仕込みの醤油を、近ごろはポジティブに捉える若い造り手が徐々に増え始めているという。「クラフトビールの動きとよく似ていますね」と高橋さん。縮小傾向にある醤油蔵の未来に希望の光が差し始めた。
「個性的でこだわりのある“クラフト醤油”を使いたがる海外需要もきっとあるはず」と、高橋さんは海外輸出も視野に入れ、日本の奥深い醤油文化を世界へと広げようとしている。造り手と使い手をつなぐ高橋さんの挑戦はまだ始まったばかりだ。