富山県立山町で、430年以上作り継がれる「越中瀬戸焼」。あのスティーブ・ジョブズとも親交が深かった作家・釋永由紀夫氏を父に持ち、その父の技術を受け継ぎながら、新たな感性で器をつくる釋永陽(しゃくなが よう)さん。田園に囲まれた虫谷(むしたに)地区にある、古民家を改修した静かな工房を訪れた。
美しい器が生まれる富山県立山町
標高3000m級の山々がそびえる立山黒部アルペンルートの玄関口、富山県立山町。富山を代表する焼きもの、越中瀬戸焼が生まれた新瀬戸地区は、町の中心部から車で15分ほどの場所にある。
古くから良質な陶土の産地であったこの地は、平安時代のはじめより焼き物がつくられていた、日本でも有数の古窯地だ。1590年代、加賀藩二代目当主の招きで尾張の瀬戸焼の陶工が移り住み、新しく瀬戸村が誕生。加賀藩の御用窯として栄え、越中の瀬戸村でつくられる焼きものは「越中瀬戸焼」と呼ばれるようになったという。以来430年ものあいだ、この地で産する陶土に支えられ、茶器から日常の器までさまざまな焼きものがつくられてきた。
しかし、最盛期には120を超えていたという窯元は、現在数軒を残すのみ。そんな越中瀬戸焼の長い歴史を受け継ぎ、のどかな自然のなかで心静かに器をつくるのが、釋永陽さんだ。
陽さんの父は、スティーブ・ジョブズをはじめ、国内外に多くのファンをもつ越中瀬戸焼の代表的作家、釋永由紀夫氏。幼少のころから父が作陶する姿を見て育ったものの、はじめて土にふれたのは20歳手前ごろのこと。
「食卓から見えるところで父がろくろを回していたので、身近な存在ではあったのですが、やっぱり父の表情が真剣なので、粘土遊びしようとかいう雰囲気ではなくて。18、19歳のころはじめて土づくりの手伝いからはじめました」
ちょうど、将来どんな道に進もうか思い悩む時期。織物でも、染色でも、なにか手仕事に携わりたいと憧れていた陽さんは、いちばん身近だった陶芸の道を志した。
きめ細やかで緻密な、地元の粘土に魅せられて
父の指南のもと土づくりをはじめた陽さんは、地元で採れる粘土の質感にのめり込んでいった。
「きめが細やかで、粘り気があって、鉄分が少なくて、緻密。高温に耐えうる良い粘土なんです」と言う。
京都の技術専門校で作陶を学んだのち、曽祖父が築き、父が継承した庄楽窯(しょうらくかま)で修行。初めて個展を開いたのは25歳のときだ。
薄づくりで手取りの軽い器には、絵付けをせず、形や色の組み合わせ、焼け味で変化をつけているのが陽さんの器である。釉薬は、李氏朝鮮時代に朝鮮半島で作られた高麗茶碗の一種である伊羅保(いらぼ)や、淡黄色の釉が施された黄瀬戸、白濁した色合いの藁灰釉(わらばいゆう)を好んでいる。
「釉薬はすべて自分で手がけています。特に、藁灰釉のやさしい、やわらかい白が好きで。稲刈りのときに地元の農家さんから藁をもらってきて、燃やしてできた灰をアク抜きしてつくるんです」と陽さん。
天然の灰を使うとムラができやすいうえ、どんな仕上がりになるかわからないから、毎回さまざまな調整をほどこす。同じように調合しても、そのときの藁によって少し青みが出ることもある。それもまた、自然の力だと受け止めている。
富山のどかな集落の古民家を改修して工房に
2014年、38歳のときに独立し、夫と息子とともに立山町虫谷地区に工房を移した。集落は民家14軒と八幡社があるだけの、とてものどかな場所。築80年の古民家を自分たちで改修し、大きな母屋とふたつの納屋を、陶芸工房と夫の和紙工房として使っている。
「へんぴですが、作陶するには静かでとてもいいところです」と陽さんは言う。四季の移ろいを感じながら、風土を大切に、心穏やかにろくろを回している。
工房の窯場にはガスの窯と電気の窯があり、焼き上がりの色調の違いをイメージして使い分ける。
2004年に父が設計して築いた、庄楽窯の大きな登り窯で器を焼くこともある。
「小さいときから薪運びなどの手伝いをしていて。今でも年に1回程度、父が火入れをするときに、自分がつくった器も持っていって窯入れしています」
焚き終えた高温の窯を見るときは、それを何度経験しても、祈るような心持ちになるという。窯出しの日には、取り出すとすぐに高台をととのえる。ろくろを回していたときにイメージしていた、雰囲気や寸法、手取りの良さを確かめるように、料理を盛り付けたり野花を入れてみたりするのだ。生まれたての器からそれらを真っ先に感じられることは、作り手の醍醐味だと話す。
花器に小鉢。暮らしに寄り添い、豊かな時間を生む器を
陽さんの代表作のひとつといえば、「mari-mari」と名づけた花入れだ。ろくろで空洞の球体をつくり、半乾きの生地に網目模様を引いて、ナイフを入れて透かし彫りに。最後にカンナで薄く削って仕上げる。手毬のような可愛らしさがあり、野花をそっと生けるととても美しく映える。
さまざまな寸法の器が重なった「入れ子鉢」も、陽さん自身がもともと好きでよくつくっていたもの。白釉の表情がやさしく、凛とした佇まい。
「以前、アパレルメーカーと何かつくろうということになって、イベントで入れ子鉢を出したことがあるんです。それまで金沢や東京などで開いてきた個展とはまた異なり、ファッションがお好きな方たちとの出会いもあり新鮮でした。これまで見ていただく機会のなかった方にも知っていただけて、うれしかったですね」と話す陽さん。
現場の声をもとに、使いやすい寸法を見極めながら作っているという陽さんの器は、和食店やイタリア料理店、カフェなどでも、いきいきと大切に使われている。
暮らしに寄り添った陽さんの器は、日々の食事の時間を豊かにしてくれる力があるのだろう。
個人からの依頼で印象に残っているこんなエピソードもある。とある女性からのオーダーは、思ってもみなかった、骨壺だった。どうしても旦那さんと2人一緒に入る骨壷がほしいというのだ。当時、おなかには2人目の子どもがいて、作り慣れないものは断るつもりだったという陽さん。しかし、経緯を聞いているうちに感動して号泣してしまった。その女性が帰るころには「つくります」という言葉が口から自然にこぼれ出たという。
原点である土づくりを大切に。越中瀬戸焼を次の世代へ
今でも陽さんは、実家近くの山の粘土で土づくりをしている。
「土も自分でつくっていると、なんだか腑に落ちるんです。陶芸家の方は粘土を買う人がほとんどだと思うのですが、私は買った土はほとんど使ったことがなくて」。
30年ほど前に、家の近くの山を崩しているとき、良質な粘土層の土が出てきた。現場の人はいらないというので、父がダンプカーで何台も運んでもらったことをよく覚えている、と陽さん。その粘土を今でも使うことができる。なんと贅沢なことだろう。
下の子の子育ても少し手離れし、ようやく作陶に集中できるようになった。家族で夫の和紙の制作を手伝うこともある。
「子どもがうまれて作風が変わるとしたら、これからかな。産後休んでいる期間はつくりたいという気持ちが大きかったし、これまでやったことないことに挑戦したいと思っていたので」。今は限られた時間のなかで、濃密なときを過ごしているようだ。
そして、これから先は―。
「確かな技術を持って、知識や経験に縛られることなく柔軟に、丁寧に、越中瀬戸焼をつくり続けていきたい。そして次の世代へとつなげる種蒔きができたらいいなと思っています」。そう話す陽さんの表情は明るい。