萩焼は、茶の道で「一楽、二萩、三唐津」と評される名高い茶陶である。萩焼の創世時より400年余り続くルーツを持つ、由緒ある窯元を守るのが、当代の15代坂倉新兵衛(さかくらしんべえ)さんだ。萩の土ならではの魅力を引き出す伝統的な技法と、先鋭的な表現を使い分け、独自の作風で萩焼の新たな可能性にチャレンジし続け注目される作家だ。
萩焼の古き流れのひとつ、深川萩の歴史
山口県北西部、本州のほぼ西端の山間に位置する長門(ながと)湯本温泉は、県内最古の温泉街として室町時代から数百年の歴史を持つ。今なお観光客が絶えない人気温泉街の喧噪を離れ、谷間に進むと、三ノ瀬(そうのせ)と呼ばれる萩焼の名門、深川(ふかわ)萩の陶工たちの暮らすエリアがある。
萩焼の創世から、窯を守り400年
萩焼は高麗茶碗にルーツを持ち、日本海側が交易の中心であった頃の大陸文化に由来した陶器である。1605年中国地方を治めた毛利輝元が高麗(現在の朝鮮半島)より陶工を呼んだことに端を発し、長らく毛利藩(長州藩の別称)の御用窯として庇護を受け続け、17世紀半ばには萩城下から現在の長門市、深川の地にも分窯された。ここ「新兵衛窯」は「深川(ふかわ)萩」と称され、この深川の地にて360年に渡り代々続く名窯だ。
12代新兵衛は明治時代に入り長州藩が解体され、最大の発注者だった藩主を失ったことで、萩焼が歴史上最も困窮した時期に、日本全国に新たな販路を見出し、萩焼の名を後世に残したことで知られる。「萩焼中興の祖」と称され、近代に萩焼の名を世に広めた立役者であり当代の祖父にあたる人物だ。
萩焼の伝統
萩焼の特徴は、山口県防府市周辺で採掘される白色の大道(だいどう)土、鉄を多く含む赤みのある見島(みしま)土、そして金峰(みたけ)土の3種を混ぜて使うこと。代々使われてきたこの土の調合にはメリットが多く、砂礫(されき)を多く含むことで焼締まりにくく、“ざっくり”とした萩の土本来の持ち味を残した焼き上がりになる。また茶碗としての軽さと使いなじみの良さ、さらに山間の急斜面を生かした「登り窯」による、高温での焼成においての耐久性・耐火度を発揮する。
また貫入(かんにゅう)と呼ばれる、釉薬と胎土との収縮差で起こる表面のひび割れの美しさや、茶碗を長年使うほどに抹茶がひびに染み込み、さらに美しく「変化する」「使い、育てる」ことを評した「萩の七化け」を楽しむことも萩焼の醍醐味とされる。
新兵衛窯では、この非常に扱いづらく、成形の難しい土の調合を代々受け継ぎ、共生しながら、美しい輪郭を残す「萩の土がつくる景色」「土味」を守っている。本質として「土を生かしているか」を問い続け、焼き上がりの土の風合いが魅力的に表現されているか?とくに「土味(つちあじ)」を生かした表現になっているかを追及し、作陶を続けている。
土味とは、焼物に於いて、焼成後の器に表れている本来の土の持つ魅力のことをいう。土の素朴な風情や荒々しさと、艶のある釉(うわぐすり)や刷毛目、化粧土等の加飾とのデザインの対比が、美しさとして相乗効果で引き出される表現である。萩の土の力強さと、釉の繊細さが作る妙は手にする人を虜にする。
長い伝統を継ぐ窯元として、作家として
当代の15代坂倉新兵衛さんは名門の茶陶を求める全国の茶人からの依頼だけでなく日本各地で個展が開催され人気を集める。長年培われてきた、萩焼の「土の魅力を表現する」という軸を守りつつ、革新的な作品づくりを行う希代の作家だ。
名窯を継承する者として、また作家として駆け抜け44年余。2013年には「萩焼」の山口県指定無形文化財保持者に認定された。茶器としてだけでない萩焼の魅力を、芸術の域に引き上げる作品作りを行い、萩焼に進化を与える造形表現を提案し続けている。
東京藝術大学彫刻科への進学は、家業を継ぐというプレッシャーを感じることなく、自身の意思でのことだった。しかし、卒業後ほどなく先代の父が病床に倒れ、息つく暇もないうちに29歳での当代襲名となった。先代の14代とは晩年の数か月しか同じ窯に立つことはできなかったが、小学生までの祖父12代新兵衛との3世代暮らしが陶芸家としての礎となっている。(13代坂倉新兵衛の名は戦死した14代の兄、光太郎氏に贈られている。)
明治維新による、幕藩解体により最大の発注者を失った萩焼。各窯元で新たな手法・販路を見出す必要がある中、窯元の周辺ですら民間には萩焼のことをよく知られていない状況だった。そんな衰退の一途を辿る時期に12代は生まれた。萩焼はそもそもが藩の御用窯という位置づけであったので、作り手が作家として自分の陶印を押すようになったのは、廃藩置県ののち、12代になってからのこと。
12代は行動力と先見の明をもって、より中央へ、より人のいる場へ発信すべきと、半年作品を作っては、残り半年かけて大きな荷物を背負い出かけた。広島、尾道、遠くは大阪、東京にまで旅館や寺を会場に熱心に売り込みに行っていたのだ。
特に京都には足しげく通い、当時茶道人口が増加していく中で、裏千家の御家元に入門し、薫陶を受けながら、「坂倉新兵衛」として格式高い茶道具を数多く作り出し茶陶萩としての評価を確立していった。優れた作家であったとともに、言わばプロデューサーでもあり、素晴らしいマーケッターでもあったのだ。
当代は旅先で立ち寄った旅館などで、祖父が手売りしていた当時の様子を耳にすることもあり、12代から受けた影響は大きく、「作品として後世に形を残してくれている。陶工としても、人間としても尊敬しています」と柔和に穏やかに話す。
先代たちが萩焼の本質が何であるのかを理解し、基軸を守る伝承があったからこそ、現在、自由な表現と飛躍的なチャレンジが出来るのだと。
萩焼とはなにか?を追い続けて
萩焼は、最小限の装飾と手取りの良さが侘茶(わびちゃ)を邪魔しないことが茶道で人気を博す所以である。穏やかな白や淡いピンク、代表的なオレンジがかった枇杷(びわ)色など、柔和な釉薬の色味と持ち心地の良さから、世代を問わず好まれてきた。近年では抹茶椀としてだけでなく、食材を邪魔しない上品さから料理を盛る器として料亭や飲食店、日常使いまでも幅広く重宝される存在だ。
土:育てるからこそおもしろい萩焼「てのひらの景色」
新兵衛窯の茶碗は艶やかな釉調の美しさとは対照的に、一見するとずっしりと重みのある佇まいである。しかし、持った瞬間に驚くほどの軽さと、両手にすっぽりとなじみ茶碗の方から手に納まりにくるかのような感覚が生まれる。
伝統技法による茶碗を手にした人に「手取りがいい」「持ち上げるとしっくりくる」と評価され、喜んでもらえることこそ、この上ない喜びだという。手のひらの中で包み込む時の茶碗の佇まいと見せる表情は、人を癒す温かみがあるのだという。
窯:” 即興性 ”のある萩焼の魅力
当代は萩焼のおもしろさを「即興性」だという。萩茶碗の個性を作る、土や釉薬の一期一会は、萩焼の最大の特徴といえる「登り窯」でこそ出せるものだ。登り窯では油をたっぷり含んだ松薪で、一気に1,200℃以上の高温で焼き上げる。焼成によるさまざまな表面変化、窯変(ようへん)が毎回現れ、窯内の作品の置き場所によっても、色の出かたや釉薬の溶け具合が変わる。登り窯という薪窯ならではの複雑な炉内条件によって生まれる窯変こそが、萩の伝統土の特徴でもある予期しない模様や色、表面感のバリエーションを与え、作品の味わいを深くするのだ。
その分、全く同じ作品に出会えることはなく、失敗も多い。焼きあげた作品の半分が世に出せる作品になっていればいい方。だからこその特長を逆手にとり、釉の調合による焼上がりの妙と、焼成時の灰被りと呼ばれるさらなる変色技法を加えて、即興的な焼成表現に挑戦している。
「酸化炎で焼けば黄色に、還元炎であれば青色に、中性にしてそのミックスした色の妙を表現できるんです」と、するするっと滑らかに話す口調は、よどみない創作意欲と、どこか実験を楽しむ化学少年のようでもあった。
萩の土の特長と、釉薬の変化をその場そのときの一期一会で表現する。化学反応として楽しめる萩焼の即興的な魅力に、一番惹きつけられているのは当代なのかもしれない。
表現:萩の土をポイントとして生かす先鋭的な手法
萩焼の「土味」を生かすことへの飽くなき追求。当代は萩の土をより際立たせたいと考えた。壁状の広い面に花の絵を施すことにより、焼成による変化で生み出された奥行きと空間性が対比となり、より魅力的にその土味を表現できるのではないか。30代頃からはじめた造形表現である。また細かい刻みを筋状に加えるデザインでは、土の表面に粗々しさをプラスしながらも同時に緻密な印象も受ける。掛け分けの花器では、土台の土に、化粧土、2~3種類の釉を重ねていくことでコントラストが生まれ、どことなくモダンな雰囲気を演出する。
油絵で使われるペインティングナイフ
萩焼の絵付けは当時異例の技法だった。花の絵は絵具ではなく化粧土を盛り付けて描いていて、陶芸としては珍しい、ペインティングナイフを使用する。
生乾きの段階で土を貼り付け、象嵌(ぞうがん)と呼ばれる立体的に美しい絵を浮かび上がらせる手法も取り入れ、萩の土を昇華させる方法を模索し、試作と思考を重ね続けた。萩焼ならではの無骨な土台の色に、ふわっと浮き上がる百合や椿、菖蒲(あやめ)の装飾は、自生する野花とふいに目があった瞬間のような自然な美しさを表現する。
仕上げとなるガラス質の透明釉は極力うすくかけ、下の土肌やレリーフ状に盛り上がった化粧土による絵付の立体感を生かすことで、土の凹凸が正直に現れる。さらに窯変の美しさをダイナミックに表現するため、あえて火の近くに置き、灰を花器の半分程度まで深く被らせる灰被り技法を用い、器の肌・表面感の豊かな表情を造り上げていく。土味と表現のコントラストの妙に引き込まれる。
創作意欲の原点とこれからへの想い
当代は萩焼の将来について、家族や窯元単位でなく萩焼文化そのものの更なる繁栄を目指したいと考えている。その理由は、かつて萩焼の苦境を脱し、人気を再加速させた12代の祖父を思い、創作意欲の原点とするからこそ。
かつて祖父の手腕と努力で得てきた今日の萩焼の定評と品位を、守り続けたいと語る。
継承、そして次の世代へ
萩の窯元は全体人口が多くなく、京都の窯業試験場のような専門的な学校が地元地域にないことから、どうしても一度は県外に学びに出ることになる。東京や京都で学び、同世代の作家たちと切磋琢磨したことで得た学びの多様性が、今の萩焼の表現に生かされてきた。現在は、かつての当代本人もそうであったように、長男である16代となる正紘(まさひろ)さんと窯を共にし、またお孫さんの元気な姿も窯場付近で見ることができた。
京都・樂家との交流とさらなるチャレンジ
作家としての伝統作品を発表するだけでなく、工芸・アートとしての発信も精力的に行っている。代表的なのは、滋賀県にある佐川美術館で2016年に開催された「吉左衞門X(エックス)新兵衛の樂 吉左衞門の萩」である。当時話題になったのをご存じの方もいるかもしれない。
日本を代表する名窯元の当代2人のアートコラボレーション。樂焼・15代樂吉左衞門(直入)氏とは、偶然にも藝大陶芸科の同窓であり、現在も家族ぐるみで食事をするなど付き合いがあるという。美術界の話題や注目をよそに、構想数年で実現した世紀のコラボでは、当人同士はお互いの窯場で相手の土を使って制作するという趣向を大いに楽しんだ。新鮮な環境下でのものづくりでは、新たな発見があり、童心に戻るかのような体験ばかり。お互いの工房を取り換えて、収縮率の違う樂焼と萩焼、焼成方法も異なるなかでお互いの作品を作り発表する刺激は、本人たちだけでなく居合わせた仲間や、鑑賞者、なにより後進の若き陶芸家たちにも影響を与えたはずだ。
「百万一心」と書いて「一日、一力、一心」と読む。毛利家が代々伝える、皆が心を一つにして物事を積み重ねることの大切さを説く言葉である。
御用窯から民窯となり、使い手の期待に応えて一日一日積み重ねてきた、その陶工たちの改良・研究の歴史が、15代新兵衛へ脈々と受け継がれ、今、私たちがてのひらに納めることができる。歴史と背景を知り、使い育てることで、萩焼の躍動を後世に伝える、歴史の担い手になれるかもしれない。