日本国内のみならず海外でも日本酒ブームの火付け役となった旭酒造株式会社。銘酒『獺祭(だっさい)』の名でよく知られる酒造メーカーだ。酒造メーカーとして型破りな方法で飛躍し国内外で愛され続け、もはや頂点をみたようにも思える『獺祭』は、今もなお進化しようとあくなき挑戦を続けている。
ピンチをチャンスに変える日本酒造り
山口県東部に位置する岩国市。県道5号線の山中をひたすら車で進むと、突如として現れる12階建てのビル。この酒蔵として珍しい近代的な蔵は、1770年創業、200年以上の歴史を持つ旭酒造株式会社の本社蔵だ。ここで世界的にその名を知られる銘酒「獺祭」が作られている。
「獺祭」生みの親である現会長、桜井博志(さくらいひろし)さんは、大学卒業後、大手酒造メーカーに勤務。その後旭酒造へ入社したが、先代との考え方の違いから一度は退社し、石材業を営んでいた。
1984年。先代が亡くなり3代目として旭酒造に戻ってきたものの、日本は空前の焼酎ブームで、日本酒の売り上げは激減。とにかく安く多く販売し消費するという時代。 地方の小さな酒蔵で製造できる数も少なかったため、当時の看板商品であった「旭富士」は売れず、旭酒造の業績は、年々下降するばかりだった。どうにかしようと奔走するも、地元の問屋も相手にしてくれない状況。
しかし、桜井さんはこの大きなピンチに直面したことで、日本酒造りの本質的な問題を、一つひとつ整理していく。
本当においしい日本酒「獺祭」の誕生
生き残り戦略として取り組んだのが「本当においしい日本酒」をつくること。山口の片田舎で名前も知られない酒蔵が、当時日本酒業界の主流だった薄利多売で勝負をしても勝ち目はない。そこで選んだのは単価が高く価値を訴求しやすい「純米大吟醸」だった。
日本酒は、原料や精米歩合などの違いによって種類が分けられている。その中でも、純米大吟醸というのは、米・米麹・水だけで造られる。
精米歩合が50%以下の米を、低温で長期間発酵させ、米本来の旨味やコクがあり、吟醸香といわれるフルーツのような甘い香りをまとうのが特徴。低温でじっくりと熟成させる造りは、コストも手間もかかるため、お酒の値段は高くなる。価値あるおいしいお酒を造ることで商品価値をあげていくのが狙いだ。
しかし、いくら良いものを造っても、「旭富士」のままでは手に取ってもらえない。新たな銘柄が必要だった。酒蔵がある獺越(おそごえ)という地名は、獺(かわうそ)が山を越えてやってきた場所という古い言い伝えに由来していて、そこにヒントを見出した。
獺が獲った魚を河原に並べて置く独特な行動が、神仏にお供え物を祀る(=祭る)ように見えたことから生まれた「獺祭」という中国の故事があった。そこに明治の文学界に革命を起こした正岡子規の俳号の一つ「獺祭書屋 主人」にちなみ、この山奥から革新的な酒造りに挑戦する酒の名前にピッタリだと、「獺祭」と名付けることとした。
本当に美味しいと思える酒をつくるための苦闘
とはいえ、新卒で大手酒造メーカーに勤めた経験はあるが、酒造りはまったくの素人。そのため、評判の高い蔵元を回ったり、おいしいと言われる吟醸酒を真似してみたり、やれることはかたっぱしから試した。桜井さんがかき集めてきた情報を元に杜氏が酒造りをおこない、すべてを数値化し、データを元にトライアンドエラーを繰り返していった。大学の先生からは純米大吟醸を量産するなんて言うことは、杜氏の気持ちを冒涜している、と叱られた事すらあったが、経験に勝る強みはないのだ。
着手から6年の歳月を経て、1990年ようやく、精米歩合50%と45%の純米大吟醸酒の販売にこぎつけた。完成にたどり着くまでは「地べたを這いつくばる想いで耐え忍んだ」。そう桜井さんは当時を振り返る。
開発当初からマーケットは東京へと決めていた。地元の小さな商圏では売り上げが先細りすることは目に見えていたからだ。桜井さん自身も酒販店や飲食店を回って積極的に営業活動をおこなった。発売当時バブルがはじけたばかりで、銀座の一等地は閉店したバーなどに置き換わって居酒屋ができ始めていた頃。獺祭のような高価格帯の日本酒を好んで置く店が多かったのもラッキーだった。また東京にいる山口県民などの間で少しずつ話題になると、取り扱ってくれる飲食店も増え滑り出しは好調といえた。
業界トップクラスの純米大吟醸造りへの挑戦
日本酒業界は古くから、問屋を介して飲食店などの消費者へと商品が届けられてきたため、問屋との関係性が販売量を大きく左右してきた。売れている酒が必ずしも消費者の求めている酒とは限らないのが実情だった。
しかし、このままいくと日本酒業界は衰退の一途を辿ってしまう。古い仕組みを見直し、本当においしいものを多くの人に届ける方法を考えた桜井さんは、自分たちの造った酒を適切な状態で販売してくれる酒販店に限定して直接取引を始めることにした。全国の売り場に社員が直接出向き、販売環境を確認して回ることも惜しまなかった。自分たちの目で見て、肌で感じた市場感と敏感に向き合ったのだ。
おいしい酒というのは全国どこにでもある。その中でも自分達の売りとなるものを強く打ち出すため、次に挑戦したのは業界トップクラス23%の精米歩合を誇る純米大吟醸「獺祭磨き二割三分」の開発だった。
徹底的にかける手間とコスト
玄米を表面から77%削り取った状態の米を使うことで、雑味のないクリアな味わいと、奥深いおいしさを表現できる。しかしそれは簡単なことではなかった。磨きすぎると面白みのない味になる。
そのため、機械を使う方が再現性の高い作業、人の手でしかできない繊細な作業など、細部に渡って検証を重ねた。効率や導線、微妙な変化などを徹底的に突き詰め改善してきた。
また使用する米はすべて山田錦。
山田錦は、脂質やたんぱく質といった余分な成分が少なく、大粒で砕けにくいため精米しやすいのが特徴。吸水性も高く良い麹をつくりやすいため、酒米の王様といわれるほどバランスが良く、造り手の意思を反映したお酒になりやすい。
だが、同じ米でも採れる畑によって吸水力などさまざまな違いがあるため、洗米はその微妙な違いに対応できるよう、人の手で行う。
そのほかに、蒸した米を床台まで移動させる際は水分バランスが崩れて米の品質が変わらないよう、すべて人の手で運ぶ。
麹造りは酒造りに50%以上影響するといわれているため、毎日麹の状態を機械で分析して、人の手で微調整をおこなうのだ。
人と機械のバランスから誕生した「獺祭磨き二割三分」
このように、人の経験や勘と、データや機械のバランスにこだわったことで、誕生した唯一無二の純米大吟醸「獺祭 磨き二割三分」は旭酒造の金看板となった。
雑味がなくフルーティーな飲み口で、日本酒を飲まなかった若年層や女性にも受け入れられだすと飛躍的に業績を伸ばしていくことになる。ただひたむきに「自分たちが美味しいと思える酒を造る」ことを追求してきたことが市場に受け入れられたのだ。
「獺祭」ブランドの派手なPRもせず、原点を大切にする。そんな酒造りの姿勢はじわじわと口コミでに知られるようになり、メディアでも取り上げられるようになると評判が評判を呼び絶大な知名度とブランド力を持つようになった。
成功の裏にあった杜氏制との決別
日本酒造りは一般的に季節仕事で、蔵人たちは仕込みの季節だけ出稼ぎにきて、終わると農業などの本業に戻るケースがほとんど。本業が終わらないと酒造りに参加できないなど、融通が利きにくく、自由な酒造りの足かせになることもあった。高齢化も課題になっていて、杜氏の属人的な技術を継承していくには、若く優秀な人材にバトンを渡していく必要がある。
しかしそれには安定した通年雇用が必須条件。桜井さんは夏場にも仕事があれば安定雇用を約束した人員確保ができると考え、1999年地ビール事業に参入を決めた。夏場に忙しくなる地ビール製造と冬場の酒造りをかけ合わせれば、通年雇用が可能となり製造分野に若い人材の採用が見込めると考えたのだ。
ところがたった3ヶ月で失敗、多額の借金だけを抱えることとなった。経営難の噂を聞きつけたベテラン杜氏がその年、蔵を去ってしまった。
自力での酒造りを迫られ、杜氏の役割を桜井さん自身が担い、蔵人の役割を社員5人でまかない、純米大吟醸造りをスタートすることに。幸い、時代の流れが杜氏に頼らない酒造りを意識しはじめていたこともあり、桜井さんも蓄積したデータを元にマニュアル化を進めていた。マニュアルを元に杜氏のいない酒造りを始めると、「こんな酒をつくってみたい」といったこれまでにない自由な発想が可能になった。これを機に桜井さんは一年中造れるよう四季醸造に舵をきった。その結果、通年雇用が可能となり、若い世代の雇用が進むようになった。
真においしい酒とは
以前より製造能力の限界を超えていたため、10年かけて、精米工場、新蔵、新冷蔵庫、第二蔵を建設。2015年に12階建ての本社蔵が完成した。
本当は、藪に沿って建てたかったが、酒蔵を立てるほどの広い平地の確保が難しかったため縦に伸ばす他なかった。しかしこれが生産効率を上げていき、生産能力は一升瓶400万本を超えた。かつて地元岩国でも売上下位だった旭酒造は、2016年度には清酒メーカー売上高トップ10にランクインし、名実ともに大手酒造メーカーの仲間入りを果たした。
旭酒造は現在、全社員240名中、製造スタッフ170名以上という人数で、酒造りを行っている。社員の平均年齢28歳というから驚きだ。若い力が、地元からはもちろんのこと、全国からも続々と集まっている。もちろん経験がものを言うようなポジションには、ベテランの実経験者を入れてバランスを保つことも意識しているという。
酒造りのプロとして経験を積むことのできる環境は、古いルールに縛られず、不器用ながら取り組んできたからこそ出来上がったシステムだと桜井さんは笑う。
みんな最初は素人。この世に在るものはどんなものでも変化するものだから、変化をしてもおいしいものを追求して提供できるようにと、今も進化の途中なのだという。
大切だからこそ変えていくべきもの
そんな桜井さんはこう考えていると言う。古くから続く伝統手法や文化を、大切に継承していきたいと思うなら、逆に古くから伝わるものだからと理由を考えずに惰性でやってはいけない。大切だからこそ進化しなければならないと。
そんな想いから始めたのが「最高を超える山田錦プロジェクト」だ。2019年から始めたこの取り組みは酒米農家にも夢をもってもらうきっかけになればと、旭酒造が契約する全国の山田錦農家を対象に開催するコンテストとした。今までの山田錦を超えるものに挑戦すると銘打っている。
応募数100件ほどの中から、優勝者の米を1俵50万円という相場の25倍ほどの値段で買い取るというもの。50俵(3トン)以上の出品単位となっているため実質約2,500万円以上の賞金が与えられることになる。
コンテストで優勝した米は獺祭の最上級酒を造る原料にあてられる。このコンテストをきっかけに、これまで山田錦を積極的に作らなかった地域でも「獺祭のための山田錦」が生産されるようになった。山田錦を取り巻く環境に新しい風を吹かせ、良い酒造りができる好循環を生んでいる。
世界が認める日本酒へ
ニューヨークでの現地製造の挑戦
高級ワインで知られるロマネコンティは1本100万円以上の値がつく。日本酒にも引けを取らない価値がある。しかし、その価値を認めてもらうには、価格が高くても評価してもらえる土壌があることを業界全体にも、消費者にも知ってもらう必要があった。そのためには海外の市場で獺祭が認められることが近道だと桜井さんは考えていた。
獺祭が軌道に乗り始めた2000年代初頭、ニューヨークの和食店で獺祭のリピーターがたくさんいることを耳にした桜井さんは、日本の人口減も見越し、2003年ごろから海外でのマーケット拡大を開始した。台湾から始まり、アメリカ、フランスとその規模を着実に広げ、獺祭の知名度は狙い通り世界クラスの階段を登り続けた。
2018年にはパリで、フレンチの巨匠ジョエル・ロブション氏とのコラボレーションも実現。日本が誇る獺祭は、食のジャンルを越えて愛されるおいしい酒であることを世界的に発信することにも成功。2022年には約30ヶ国へ出荷され、「美味しい日本酒」としての正当な価値を世界中が認め続けている。
そして次なる挑戦はアメリカでの現地製造だ。本当においしいものを飲んでもらうため、輸出品ではない現地製造にこだわりたいと、2019年ニューヨークに酒蔵を建設開始。なんと7000石(一升瓶で70万本)の製造能力を予定しているという。
現地に居てこそ感じられる市場の変化や求められるものを瞬時に捉え、対応できる体制をつくりたいという。
これからの思い
「私は、3周遅れのランナーです。不器用ながらに真っ直ぐひたむきに走ってきた。成功は時の運だが、成功する確率が高いものを選んでいくのも必要なことだと思う。世界を巻き込んで飲む人を幸せにするような、おいしい酒をこれからも造り続けたい」と、桜井さんはいう。
「夢は月で酒造りをすること。無理だって思わずにとにかくやってみること」そう語った桜井さんの屈託のない笑顔には、酒の味だけではなく、酒造りにかける型破りなこの情熱が、多くの人々を魅了してきたのだと確信させられる不思議な力があった。