日本には、「近江牛」「神戸牛」「松阪牛」という和牛の3大ブランドがある。中でも近江牛は、400年以上前から続く日本で最も歴史のあるブランド和牛だ。そんな近江牛を生産する農家の中でも数少ない“繁殖・肥育一貫経営”に取り組む「藤井牧場」訪ね、健康でおいしい牛づくりにかける思いを聞いた。
食肉禁止の時代に生まれた「近江牛」
近江牛の歴史は古く、およそ400年前にまで遡る。まだ日本で食肉が禁止されていた江戸時代、彦根藩では陣太鼓に使う牛皮を幕府に献上することが毎年の慣例となっており、藩としては唯一公式に牛の屠殺が認められていた。牛皮を自給するための屠殺とはいえ、皮をとれば肉が残る。そこで食肉の禁を犯さず、あくまで滋養の薬として味噌漬けにした牛肉を売り出したのが、近江牛の始まりだといわれている。
近江牛の特徴は、きめ細かく柔らかな肉質と、美しい“サシ”だ。サシとは肉の赤身部分に入っている網目状の脂肪のことで、近江牛は肉と脂肪の混ざり具合が良く、甘い脂が口の中でとろけると評されている。
近江牛の一大産地、大中地区
滋賀県の東部に位置する近江八幡市(おうみはちまんし)。その一角にある大中(だいなか)地区は、10平方キロメートルほどの地域に県内飼養頭数の3分の1が集中する、近江牛の一大産地だ。
戦後の食料難解決の手段として、琵琶湖周辺を干拓したなかでも最大のエリアで当初は稲作を中心とした農業がさかんだったが、減反政策のあおりを受け飼っていた使役牛としてなじみのあった牛を育てる農家に舵を切る生産者が増えた。現在地区内には約40軒の畜産農家があり、近江牛のみを育てる農家もあれば、ホルスタインなどの乳牛と食用の和牛を掛け合わせた体格の大きい交雑種を育てる農家もある。
近江牛の定義は、「滋賀県内で最も長く飼育された黒毛和種」であること。肉質等級や肥育日数に厳しい基準が設けられている他のブランド牛と比べるとやや定義が広いように思えるが、だからこそ生産者ごとの違いが際立つのも、近江牛の特徴だ。
数少ない一貫経営に取り組む生産者
そんな大中地区で近江牛の繁殖・肥育一貫経営に取り組むのが、「藤井牧場」を営む藤井徳夫(のりお)さんだ。お父さんの代で入植し、減反政策の折に近隣の農家と共に畜産へ転換した農家だ。幼少期から牛が好きだった藤井さんは、短大で農業を勉強したのち、迷わず就農する道を選んだという。
肉牛の生産では一般的に、子牛の生産を目的とする「繁殖経営」と、その子牛を成牛に育てて出荷する「肥育経営」が分離されており、繁殖から肥育までを一貫して手がける「一貫経営」を行う生産者は国内でも全体の数%と少ない。
「繁殖と肥育では仕事の内容や気をつけるべきことが全く違うので、両方を1軒の農家でやるのはとても難しい。失敗するとすぐに生産性が落ちて、農家としての経営が成り立たなくなるので始めてもすぐに辞めてしまう人が多いのが現実です」と藤井さん。例えば繁殖の面では個体ごとに違う発情のタイミングを逃さず受精をして、いかに空胎日数を減らすかが経営のポイントだ。一方肥育の面では、いかに多くの餌を牛に食べさせ、健康でストレスなく育てるかがポイントになる。
「これからも続けていくなら、一貫経営に挑戦するしか道はない」
繁殖と肥育、それぞれに全く違う知識や経験が必要なので両立させるのは非常に困難だが、苦労してでも一貫経営に取り組む意味は大きいと藤井さんは言う。
「経営者の高齢化や後継者不足により繁殖経営をする農家は少しずつ減っていて、子牛の値段は上がる傾向にあります。だからといって肉の販売価格も上がり続けるかというと、そうではない。うちはもともと肥育専門の農家でしたが、このまま肥育だけを続けていては高い子牛を買って安く売るという板挟みの状態に陥ってしまう。これからも和牛を続けていくならすべて自社で行うしか道はないと考えて、一貫経営に踏み切りました」。
牛のおいしさは、餌で決まる?
牛の肉質の良し悪しは、血統によるところが大きいとされている。ただし脂の質に関しては、どんな餌を食べさせるかが大きく影響すると藤井さんは言う。
「あまり高カロリーな配合飼料をやり過ぎると脂が硬くなって、食べた人が消化不良を起こすような肉になってしまいます。また、早く成長させたいからといって子牛のうちから配合飼料を与え過ぎると、脂が付き過ぎて病気になりやすく、結局は最後までたくさん餌を食べ続ける牛にはなりません。牧草を中心とした粗飼料(そしりょう)とトウモロコシなどを混ぜた配合飼料のバランスを考えて、まずはたくさん食べ続けられる胃を作ることが重要です」。
「循環型農法」で持続可能な畜産を目指す
農林水産省発表の日本国内における飼料自給率は令和3年概算で25%程度と低水準となっている。特にトウモロコシなどの濃厚飼料の分類を見ると国産で賄えているのはたったの13%。日本で育っている牛でもエサの多くは外国産というのが現状でもある。
産まれた時から出荷まで、すべて自家栽培の飼料で近江牛を育てたい。藤井さんはそんな思いから、2002年に数人の生産者と協力して「近江牛粗飼料生産組合」を設立した飼育に必要なワラや牧草を自ら栽培することで、輸入飼料が体質にあわないことによって起きる病気を防ぎ、安定した子牛の生産にも繋げることができるそうだ。田んぼで飼料を作り、実った牧草を牛が食べ、牛の糞を田んぼに還元してまた飼料を作る。牛糞の利用は化学肥料の削減に、飼料の自給は生産コストの低減に役立っている。こうして資源を循環させることで、持続可能な飼育法が実現されているのだ。
格付けにとらわれないおいしさを追求する
牛肉の格付けでは、「A5ランク12番」が最上とされている。最上となる条件は、サシが多くて霜降り加減が良いこと。3万頭に1頭の割合で格付けされるか否かといった確率だ。ただ、その希少な肉は本当に「誰が食べてもおいしい肉」なのだろうか。
「世間では『A4ランク以上であるのは当たり前。それより下は近江牛と呼ばない』と言われたりしますが、私たちにとってはA2でもA3でも近江牛。同じ土地で、同じように丹精込めて育てている牛たちです。一番大事なのは、ストレスがなく健康で、最後までしっかり餌を食べ続けられる牛であること。サシの多い少ないだけにこだわらず、肉を焼いた時にたつ香りが食欲をそそるよう、赤身と脂のバランスが良く仕上がるように意識しています。いろんな人においしいと感じてもらえる牛を育てたいと思っています」。
藤井牧場で飼育されている牛は、100頭前後。決して大きな牧場ではないが、外の光をふんだんに採り込み、風がよく通る広々とした牛舎の中に、のびのびと餌を食べる牛たちがいる。変わりゆく畜産業界の中で、命をいただくことを思い、新たな可能性に取り組む藤井さんの姿に、食肉業に携わる人の希望の光を見ることができた。