長野県松本市にある「大久保醸造」は、地元信州ばかりではなく、北は北海道、南は九州まで全国各地、名だたるそばの名店から絶大な支持を受ける醤油蔵。その人気の高さゆえ、同蔵の醤油をかえしとして使用していることを、わざわざ店頭へ貼り出して強調するそば屋も少なくない。
そんな大久保醸造が2021年、日本の優れた“おもてなし心”あふれる商品・サービスを発掘し、世界に広めることを目的に創設されたアワード「OMOTENASHI Selection(おもてなしセレクション)」にて、並み居る全国の優良商品を抑えて金賞を受賞した。これにより、飲食店への流通ばかりでなく、世界のメジャーなグロサリーを相手に十分に戦っていけるということが証明され、さらなる注目を集めている大久保醸造。長野県を牽引する蔵として、どのような醤油造りを目指しているのだろうか。
明治からつづく技術のトレースが生む“個”
明治38年(1905年)創業の「大久保醸造」。四代に渡って培ってきた技術や知見、製法にこだわって造る醤油は、前述したとおり有名料理店や料理研究家からも絶大な信頼を得ている。この蔵の四代目であり、専務取締役を務める大久保勝美さんは、自身が醸造の中心を担うようになった現在でも、先代のやり方を忠実にトレースしている。その最たるが、木桶で仕込む天然醸造の醤油だ。
仕込みの部屋にところ狭しと並んだ木桶は代々使用されている年代物。現在多く普及しているステンレスタンクのほうが味も安定するし、管理や清掃も簡単。だが大久保さんは木桶を使い続けることにこだわっている。その理由は木材の特性である呼吸と、そこに棲み着く蔵付きの菌。これが味に個性と奥行きを生み出すファクターとなるのだ。もちろんステンレスタンクとちがい、天然の素材だから手をかけることも大切。
蔵で使われる木桶は、勝美さんの父であり、社長の文靖さんが、自ら漆を塗ってケアをしている。自分の身長の倍以上ある木桶が10基。ひとつ塗るだけでも大変な重労働だと思うが、それでも天然醸造を貫くうえで欠かせない仕事だという。こうした仕事に対する姿勢や所作は、木桶のケアに限らず蔵のいたるところで感じることができる。趣のある蔵に相反した清潔感や整備された導線など、醸造技術以外の部分で商品の質を高める日々の気配りもそのひとつだ。
限られた敷地を最大限有効活用する工夫
蔵元四代目にあたる勝美さんは自蔵を案内しながらも「うちの蔵には、あまり見映えのいいところがないんですよ。増築を繰り返して現在の姿になっているので。」と謙遜する。たしかに、蔵の中には趣のある場所もあれば、工業的な大型機械が並ぶインダストリアルな内観もある。これは先代の文靖さんが限られた敷地で、代々築いてきた良い伝統を守りながら、いかに効率よく醸造を行っていくかを考え、自蔵をアップデートしていった結果そのもの。
原料庫から運び上げた大豆や小麦を3階で処理し、それを麹室のある2階に下ろして、さらに1階で待ち構える木桶に下ろして仕込むという一連の流れは移動するというよりは落としていくといった感じ。まさに限られた敷地を有効活用する醤油づくりの模範のようだ。その中でも、ひときわ目を引いたのが3階の天井に吊られた炒った小麦を製麹するタンクへ流し込む2台の装置。そもそもなぜ同じ小麦を流し込むのに別々の機械が必要なのかという疑問も生じるが、その理由は混ざりやすさなのだとか。
醤油をつくるうえで重要な工程である製麹作業の原料となる小麦。炒ってから挽き割っているのだが、この大きさが均一な状態よりも大小の差があるほうがよく混ざるのだと言う。この挽き割った小麦を製麹するタンクの真上へ、レール伝いに移動するように設計されているのだが、その際レール上で2台の装置がお互いの進路を妨げないよう、導線が切り替わる構造になっている。これは、線路の切り替えの構造を参考に、文靖さんが独自に考えたもの。このように蔵中に工夫を張り巡らせ、効率の良い作業の導線を作ることでなるべく工程の無駄を省き、余ったリソースをより良い醤油造りに向けているのだ。
素材へのこだわり
木桶を使って長期間熟成させる天然醸造や、味にふくらみを持たせる追い麹、袋に入れる独自の絞り工程など、醸造技法へのこだわりについてはもちろんだが、大久保醸造では素材にも相当こだわっている。
小麦は県内産のものを使用。塩はミネラル分が多く、塩角がないシママースを使う。なかでも、大豆へのこだわりは非常に強い。大豆は青森県の福士武造さんという農家から直接購入。青森県産というとあまりピンと来ないが、東北の肥沃な大地に水を張らずに直蒔きで種を蒔き、無農薬有機栽培で作られたその大豆の素晴らしさは豆を洗った瞬間からわかるのだという。
そのクオリティは、これまで数多くの大豆を見て味わってきた大久保さんの経験を以てしても「惚れ惚れするような豆」と言わしめるほど。この大豆と出合って以降、醤油の評判は一段と上がったように感じている。この大豆にしろ、前述した小麦や塩にしろ、一貫して作り手の顔が見える原材料を使うことを信条としている勝美さん。そのこだわりは醤油の品質の高さにも現れている。
良い醤油造りは環境への配慮から
醸造技法や素材と並び、もうひとつ大久保醸造がこだわっているものがある。それが環境への配慮だ。そもそも醤油は微生物などをはじめ、自然の力で造られているものだから、その根源でもある“自然”を美しく保つことこそ大事だと考えている大久保さん親子。
文靖さんは昭和40年代からすでに、初取引のお客様から預り金をもらって瓶をリユースするデポジットを採用していた。これは、近隣に限らず全国どこでも。こうして瓶を出荷先で廃棄せずに回収することで環境保全に一役買っている。もちろん自分たちでできることは些細なことかもしれない。しかし、やらないよりはマシ。
何事も小さな一歩が大切だと思い、今日までずっと続けてきた。そして現在、文靖さんのフィロソフィは勝美さんに引き継がれ、大久保醸造の新たな伝統を紡ぎはじめている。