江戸時代、日本で唯一ヨーロッパに開かれていた「出島」を通じて独特な文化が花開いた長崎。ウミガメの一種「タイマイ」の甲羅を加工した装飾品「長崎べっ甲」も当時の文化の交流拠点・長崎から生まれ、その美しさで人々を魅了した。長崎べっ甲職人の第一人者である藤田誠さんの工房を訪れ、歴史と魅力を聞く。
べっ甲とは
ぽってりと艶めくべっ甲飴のような黄色に、褐色や黒色の柔らかな模様。ウミガメの一種「タイマイ」の甲羅から作られる「べっ甲細工」は、その美しさと希少性で古くから高級品として珍重されてきた。
現在、ワシントン条約として知られる「絶滅の恐れのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」によって、べっ甲の原料となる「タイマイ」が全面輸入禁止となっている。つまり今後使用できるのは過去に輸入したストックのみ。原料に限りがあることがべっ甲細工の価値をさらに高めている。
べっ甲細工の歴史
べっ甲細工の歴史は古く、始まりは6世紀の中国、隋の時代といわれる。日本に初めて伝わったのは奈良時代とされ、奈良県東大寺の「正倉院御物」には、べっ甲で作られその原料「タイマイ」の名が入った儀式用の仏具「玳瑁杖(たいまいのつえ)」「玳瑁如意(たいまいにょい)」や、べっ甲細工が施された「螺鈿紫檀五弦琵琶(らでんしたんのごげんびわ)」などの宝物が保存されている。
日本におけるべっ甲細工始まりの地・長崎
日本でのべっ甲細工の歴史は、鎖国時代の長崎から始まった。唯一世界に開かれていた貿易拠点「出島」が長崎にあったことがその理由だ。当時の長崎は、中国、オランダをはじめとしたアジア、ヨーロッパ文化の玄関口。多種多様な人、物、事が混ざり合った「和華蘭」文化が誕生し、多くの商人、名士、外国人が集まる一大拠点として賑わっていた。カリブ海、インド洋などから唐船やオランダ船で運ばれたべっ甲は、長崎の港で陸揚げされ、付近に住む職人たちによって加工された。これが「長崎べっ甲」の始まりであり、櫛のほか、かんざしや化粧箱、タバコケースなどが製作されていたという。美しく気品のあるべっ甲細工は、江戸の吉原、京都の島原と並ぶ三大花街である、長崎の「丸山」の芸妓や遊女たちにも愛され、華やかな世界を彩った。
長崎から広まる技術
江戸時代後期に開港条約が締結されたことで、長崎には多くの外国人が出入りするようになった。居留中の外国人にも「長崎べっ甲」は人気を集めていたため、職人たちは研究を重ね、外国人の生活に合わせて技術、デザインを考え出し、洗練させていった。これに伴って「長崎べっ甲」の知名度が国内外で高まり、江戸や大坂へ技術が広められていく。
「長崎べっ甲」の第一人者・藤田誠さんの工房へ
大正時代から100年余り、長崎べっ甲の彫刻細工師としての歴史を刻む藤田家。3代目である藤田誠さんの自宅工房は、港町・長崎らしい、すり鉢状に広がる住宅地の高台にあった。斜面を縫うように伸びる階段を上った先、眼下に町を望む一軒家。万力、小刀、彫刻刀、研磨用の機械などが所狭しと並ぶ工房で、笑顔の藤田さんが迎えてくれた。
藤田家100余年の歩み
問屋から材料を買い付け、デザイン、加工、彫刻を経て完成。藤田さんはこれらの工程全てを一人で行う、日本唯一のべっ甲専門彫刻細工師だ。店舗は構えず、自宅の工房で製作した作品を販売店に卸すというスタイルは祖父の安太郎さんが創業した当時から続いており、誠さんの代からは「喜山」というブランド名を掲げている。「山のような喜びがあるように、という願いを込めています。ブランド名を付けるのはなんだか気恥ずかしかったのですが、販売先からの要望で…」とはにかむ藤田さんは、べっ甲細工職人歴約60年。祖父から伝わる技術を、父・日吉さんの背中を見て学び、習得した。「『喜』という字に父の名前の一部が入っていることに後から気付き、このブランド名をつけて良かったと今では思っています」。
藤田さんとべっ甲細工
物心が付く頃からべっ甲細工に触れていた藤田さんだが、本格的に父に師事したのは16歳の時。当時流行っていたダンスホールで青春を謳歌する傍ら、職人としての腕も確実に上げていった。「仕事をすれば顧客から喜んでもらえる上、稼ぐこともできる。これがモチベーションになり、毎日が充実していました」。1980年代に結婚し、家族が増えたと同時にバブル期に突入。眠る暇もないほど仕事に没頭する日々が45歳まで続いた。「作っても作っても足りない時期。思い返してみると、一番良い時代を過ごさせてもらいました」。
「べっ甲あっての私の人生。感謝しかありません」と話す藤田さんだが、後継者は育てていない。原料の確保が難しいことに加え、べっ甲に代わる安価な素材の登場や生活スタイルの変化による需要の減少がその理由だ。「息子もべっ甲職人になると言ってくれましたが、やがて消えゆく運命にある職業。残念ですが止めました」。藤田さんに限らず、後継者をとる職人は年々減ってきている。60年ほど前まで、長崎県内には小売を含むべっ甲関連業者が約300件あったが、現在はわずか20件ほどに。現在の代から跡を継がせないという職人は少なくない。
長崎べっ甲細工の作業工程
タイマイの剥製、べっ甲のストック、彫刻刀、磨き機、改造した歯科技工用具。特殊な道具にぐるりと取り囲まれた作業机の前に座り、藤田さんは朝から夕方まで1日約10時間、ベっ甲細工に向き合う。
制作の始まりは「デザイン」から。美しい曲線、緻密な紋様の図案を全てフリーハンドで描く。べっ甲は1つとして同じ風合いのない天然素材であるため、デザインを活かす「素材選び」も重要だ。背甲(背中側の甲羅)、爪(甲羅の縁)、腹甲(腹側の甲羅)から相応しいものを選び、デザインの型に合わせて糸鋸(いとのこ)で切っていく。「この工程を『切りまわし』と呼びます。糸鋸は祖父の代からのもの。手の形に合わせて取っ手を替えながら使っています。職人に1番大切なのは、自分に合った道具を作り出すことです」と話しながら、藤田さんは糸鋸の取っ手を胸で固定し、切り口を自在に操る。
「切りまわし」の後、やすりや小刀を使って不要部分を一旦削る。長崎弁で「擦る」を「きさぐ」と言うことから、この工程は「きさぎ」と呼ばれる。キリキリと独特な音を立てて擦りながら「人によっては嫌な音かもしれませんが、僕らにとってはかわいい鳥のさえずり」と藤田さん。その笑顔から、仕事への愛と、愛嬌のある温和な人柄が伝わる。
板状の作品を作る場合、複数のべっ甲を重ねて圧をかけ1つに固めて厚さを均一にするが、その際、重ねたべっ甲がずれないよう、まずは熱した鉄板で仮付けを行う。この「火ばし」と呼ばれる工程の後、万力で一気にプレス。接着剤などを使用することなく、水、熱、圧力だけで1枚の板に仕上げる。これがべっ甲細工を「水と熱の芸術品」と呼ぶ所以。「きさぐことで甲羅の表面の繊維が毛羽立ち、ここに水、熱、圧力が加わってしっかりと絡まり合うのです」。
タイマイの産地は、キューバ、アフリカ、フィリピン、インドネシアなど。甲羅は、樹木の年輪のように成長に伴って瓦状に重なっていき厚みが出る。数ある産地の中でもカリブ産のタイマイが最も上質で、「色、透明度、肉の厚さが素晴らしい」と藤田さん。べっ甲は髪や爪と同じタンパク質でできているため、熱を加えると変形する。この性質を利用し、べっ甲職人は水と熱だけで曲げたり圧着したりする技術を編み出した。例えばかんざしのような反った形状に仕上げる場合、熱したこてを当てる「押しごて」の工程で柔らかくし、湾曲させる。
その後、「彫刻」「組み立て」を経て、「磨き」をかけて作品が完成。研磨用の機械で磨き上げられたべっ甲は、特有の滑らかな艶めきを放つ。「磨く工程で、表面の乱反射を正反射にします。凸凹をなくしてあげれば、べっ甲だけじゃなく心だって光りますよ」と藤田さんは茶目っ気たっぷりに話す。
長崎べっ甲細工ブランド「喜山」
藤田さんが手掛ける「喜山」の長崎べっ甲細工は全て、この小さな工房から生み出される一点もの。長崎べっ甲の第一人者にして日本唯一のべっ甲専門彫刻士による見事な透し彫りは、ため息が出るほどの美しさだ。現在藤田さんは、全国の取引先からの依頼に応える傍ら、1、2年に1点のペースで自らの技術を注ぎ込んだ芸術性の高い作品作りも進めている。それは「父から受け継いだ様々な教えを形にしたい」という思いから。「売れるか売れないかは二の次。自分の腕を保つためにも続けていきます。べっ甲細工は決して手が届きやすい値段ではありませんが、それでも僕の作品を選び、身に着けてくれる人がいる。本当にありがたいことです」。
数十年に1度の会心作を求めて
集中力と体力が不可欠な、長時間に及ぶ作業に日々向き合う藤田さん。現在75歳、精力的に仕事を続けられている秘訣を問うと「しっかり遊ぶこと」との答えが。「お金と時間ができたら、妻を連れて出掛けます。先日は排気量1800ccのハーレーダビッドソンのバイクに乗って四国に行ってきましたよ。遊ぶためには体づくりを欠かしません。筋力に伴って気力も沸き、それが良い仕事に繋がっていくんでしょう」。
べっ甲職人として歩んだ約60年で「これぞ会心作」と自身で確信できたのは3回ほど。「あと数回、あの喜びの瞬間を味わいたい。そのために90歳までは仕事を続けるつもりです」。数十年に1度の会心作を生み出す。熱い思いを胸に、藤田さんは今日も長崎べっ甲細工に向き合う。