海上に浮かぶ軍艦ーかつて最先端技術を誇り、日本の近代化を支えた遺構の島

海上に浮かぶ軍艦ーかつて最先端技術を誇り、日本の近代化を支えた遺構の島

長崎港から南西約18kmの海上に浮かぶ「通称「軍艦島」で知られる「端島(はしま)」。ここで採れた良質な石炭はかつての日本の近代化を支え、2015(平成27)年には「明治日本の産業革命遺産」の一部として世界遺産に登録された。石炭採掘という過酷な労働に身を投じていた当時の人々の暮らしぶりはどのようなものだったのか。生まれ育った木下稔さんに島を案内してもらった。。

通称「軍艦島」。端島炭鉱とは

長崎港から約18km、海上に浮かぶ戦艦のような姿から「軍艦島」とも呼ばれる「端島」。東京ドームの1.3倍ほどの小さな無人島は、明治時代の日本を代表する企業「三菱合資会社」により本格的な近代炭坑として開発された歴史を持つ。幕末から昭和、第二次世界大戦期にかけての日本の急速な近代化を押し進める重要な役割を果たし、2015年に文化遺産「明治日本の産業革命遺産である製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の1つとして世界遺産に登録された。




端島炭鉱の歴史

現在の端島は、南北に480m、東西に160m、面積約6.5haという小さな島だが、これは1931年までに計6回の埋め立てによって作られたもの。元は南北約320m、東西約120mの岩礁であり、現在の半分の大きさだった。つまり端島は、島の周辺を埋め立てながら形作られた人工島なのだ。拡張が必要だった理由は、当時の日本が置かれた状況とエネルギー事情にある。江戸時代まで海外との交流がなかった日本は他国に遅れを取らぬよう急速な近代化を必要としており、当時の主要エネルギーだった石炭の確保が課題となっていた。そんな折、端島で良質な海底炭脈が発見される。時代の流れによって炭鉱開発を加速させた結果、荒波に揉まれる岩礁の上に、当時の先端技術を集めた人工島が誕生したのだ。


端島炭鉱の始まり


江戸時代末までは、近隣に住む漁師が漁業の傍ら、岩礁の表面の露出炭を採炭する「磯掘り」を行っていた。その後も佐賀鍋島藩が小規模な採炭を続けていたが、19世紀初頭、端島の海底に炭脈が発見され、さらに三菱合資会社に経営が移ったことで、端島の北に浮かぶ「高島」と共に近代炭坑の島として急成長を遂げる。




最盛期には人口密度日本一。日本初の高層アパートが誕生


三菱合資会社の運営により、本格的に端島炭鉱の歴史がスタートしたのが1890年のこと。端島には海底に炭脈があり、地下約1,000mが作業現場となる。巨大で複雑な坑道の先には機械を入れられないため、細心の注意を払いながら人力で作業を進める。常に危険と隣り合わせの過酷な環境で、鉱員たちは班ごとに分かれて効率的に採掘を行なっていた。採れる石炭はボタ(粗悪な炭)が少ない「瀝青炭(れきせいたん)」。日本一の品質といわれた端島の石炭は、主に製鉄用原料炭として八幡製鉄所へ供給され、日本の近代工業を支えた。


開発が進むにつれ鉱員数が増加し、社宅も次々に建設されたが、当時一般的だった木造住宅は悪天候の度に流れ込んでくる荒波によって頻繁に倒壊していた。そこで1916年、世界の最新技術を用いて日本初の鉄筋コンクリート造り高層アパートを建設。1960年頃には、当時の東京都区部の人口密度の9倍にあたる5千人以上が生活していたという。収入の良い鉱員たちの生活水準は高く、水道、電気等のライフラインは安定していた。電化製品の普及率も高く、例えば1958年当時、全国のテレビ普及率が10%であったのに対し、端島ではほぼ100%。社宅の屋上に日本初の「屋上庭園」を設けて緑に触れるスペースを確保したり、島のメインストリート「端島銀座」で定期的に青空市場を開催したりと、島内では豊かで活気ある生活が営まれていた。





閉山

採掘量のピークは1966年。その後、石炭から石油へとエネルギー転換が始まり、このあおりを受けて8年後の1974年1月15日に閉山。3ヶ月後の4月20日には全島民が島から出て行き、無人島となった。閉山から35年間は上陸ができない状態が続いていたが、2008年から島内の整備が進み、翌年4月からは一般の人でも上陸ができる環境に。2015年に世界遺産の構成資産に登録されると、観光地としての人気が高まった。独特な景観で人を惹きつける端島は、映画「007 スカイフォール」や「進撃の巨人」などのロケ地としても登場している。




端島に上陸。案内は、幼少期を島で過ごした木下稔さん


長崎市南部、早朝の野々串港から沖合を眺めると、大きな戦艦のシルエットが朝日に照らされ海原に浮かんでいた。大正時代に長崎の三菱重工業造船所で作られた日本海軍の戦艦「土佐」に似ていることが、端島の通称である「軍艦島」の由来。第二次世界大戦下、アメリカ軍が日本軍の戦艦と見誤って砲撃したという逸話の理由がよく分かる存在感だ。


港から漁船に同乗し、島を案内してくれるのは軍艦島コンシェルジュのガイドである木下稔さん。 中学1年生まで端島で過ごした木下さんは、現在「元島民ガイド」として端島の歴史や当時の暮らしを伝えている。







炭鉱の島での暮らし

島に近付くと外壁の一部に赤い石積みが見える。これは「天川(あまかわ)工法」の護岸。日本にセメントが普及する前の明治時代、石灰と赤土を混ぜた「天川」で炭坑施設を造ったという歴史背景が評価され、世界遺産登録の対象となった。上陸は「ドルフィン桟橋」から。この桟橋は1962年に再建された3代目であり、長さ25m、幅12m、海底からの高さ15mの人工島を作ることで耐久性を保っている。島の南側にある約230mの見学通路に沿って歩くと、主力坑だった第二竪坑跡や鉄筋コンクリートのアパート、緑が覆う半壊した建物が立ち並ぶ様子が見える。島には独特な美しさと穏やかな静けさが漂い、異世界に迷い込んだような空間が広がっていた。



「島の半分以上は鉱場。残りの土地で僕たちは生活をしていました。住居や学校、病院のほか、神社、派出所、理髪店、そして大人の娯楽のためのパチンコホール、ビリヤード場、雀荘、碁会所、遊郭まであったんですよ」と木下さん。「土がある端島神社や屋上は子どもたちの格好の遊び場。野球やビー玉遊びをして過ごしていました。アパートでかくれんぼすることも多かったです」。




「炭鉱マン」だった父

木下さんの父は端島で唯一の映画館「昭和館」の映写技師だったが、島にテレビが普及した影響で、1960年代に映画館は閉館。これに伴って鉱員、通称「炭鉱マン」として働くことになった。「島の子どもたちの父親は、ほぼ全て炭鉱マン。炭鉱での仕事は過酷であることを子どもながらにみんなしっかりと理解しており、父の休息を邪魔しないよう配慮していました」。


まるで島民みんなが家族のようだったという木下さんに、島の治安について尋ねると「交番に牢屋はありましたが、犯罪で使うことはなかったと聞いています。炭鉱マンは『お酒がないと喧嘩が始まる』といわれるほどの酒豪ばかりだったので、酩酊して家に帰れなくなった人が一晩過ごすために牢屋を使っていたそうですよ」と笑顔で話す。鉱員たちは日常的に、酒を酌み交わしながら班ごとに話し合いを行なっていた。命をかけた仕事に誇りを持っているからこそ、議論が白熱した際に喧嘩に発展することも稀にあったが、仕事以外の争いはない、平和な島だったという。

鉱員の仕事は8時から16時、16時から24時、24時から8時の三交代制。「父が夜勤の日は決まって22時半に叩き起こされ、『いってらっしゃい』と言わされていました。当時の僕はこれがとても嫌だったのですが、今では父の気持ちがよく分かります。危険を伴う仕事の前に子どもの声を聞きたかったのでしょう」。木下さんの話から、炭鉱の島に暮らす暖かな家族の日常、人々の営みや活気が伝わってくる。




島のインフラ事情

島での生活には水の確保が必要不可欠。安定した生活水を供給するため、1957年、日本で初めての海底水道を2本敷設し、1日約1,000t の水を長崎市内から引き入れた。水は一旦タンクに貯蔵され、その後各アパートの水瓶へ。各家庭にはあらかじめ「水券」が配られており、券と引き換えに1日で使用できる水を毎朝受け取るという仕組み。日々必要な量の水をしっかりと確保できていた。




風呂がある家は少なく、島民のほとんどが公衆浴場を利用していた。仕事が終わった鉱員はまず作業服のまま湯船に入って炭塵を落とし、次に服を脱いで湯に入り、最後にしっかりと体を洗うという三段階の工程で入浴を行なっていた。三段階目の入浴時のみ真水、他は海水を使用していたという。学校のプールは海水だった。水を始め、電気、ガスなど、島内の生活ライフラインは全て三菱合資会社が管理し、どれだけ使用しても料金が一切発生しなかった。鉱員たちが住んでいた社宅の家賃は月10円。「とても暮らしやすい環境でした。閉山後に島から出て初めて、どれだけ恵まれていたか気付きました。しょっちゅう島に帰りたい!と思っていましたよ」と木下さん。ただ、台風などの悪天候が続くと不便なことも。「台風の後の約1週間は島に船が着岸できなくなり、物資が届きません。当時は冷蔵庫がなかったため、缶詰とカンパンで過ごしていました」。




近代日本を支える仕事に誇りを持ち、自然災害に立ち向かいながら営まれた島の暮らし。「みんな支え合って生きていました。苦しかったからこそ、力を合わせて奮い立ち、絆を強めていたのかもしれませんね」と木下さんは話す。「生まれ故郷が世界遺産になったことをとてもうれしく思っています。世界中の人が島に興味を持ち、訪れてくれるようになりました。遺構は徐々に崩落していますが、現在の島の様子を歴史と共にみなさんに伝えていきたいです」。


国内最古の鉄筋コンクリート造アパート「30号棟」は、2021年末の時点で、約半年後に崩落すると専門家によって予測されている。現在はかろうじて構造が保たれているが、いつ崩落しても不思議ではない状態だ。時の流れと共に刻々と姿を変える端島には、今しか出合えない風景があった。




かつての「未来都市」が伝えること

日本初となる最先端技術が集約された端島は、まさに当時の「未来都市」。そこには石炭事業だけではなく、人々の生活もあった。日本の近代化、高度成長期を支えた洋上の孤島は、自然に立ち向かい、日本の未来に果敢に挑戦した人々の軌跡を、時と共に姿を変えながら現代の私たちに静かに伝えている。


ACCESS

軍艦島(端島)
軍艦島コンシェルジュ乗り場 長崎市常盤町1-60 常盤ターミナルビル